■2016.5.21パンセ通信No.85『自分自身と関わる力を高める-瞑想と祈りと呼吸法2/2』
皆 様 へ
『耳で見て目で聞き、鼻で物食ふて口で嗅がねば、神はわからず』- 第二次世界大戦前に、京都の綾部で世直しを唱えて大弾圧を被った、大本教の出口王仁三郎教祖の言葉です。私たちは五感(さらには五感を通じて六感も)を駆使するのでなければ、本当のことは分からないということです。さらに鎌倉末期の禅僧大燈国師も『耳に見て、目に聞くならば疑わじ、おのずからなる軒の玉水』と読んでいます。私たちが1つの感覚にこだわることなく、物事を総合的に捉えることが出来るならば、軒から滴り落ちる水の音にも、大地自然のすべてを生かすいのちの営みを感じ取ることが出来る。そして自分は一人無力なのではなく、自分もまたこの大いなるいのちの営みに与(あずか)っているのを知ることができると、禅師は私たちに教えるのです。
現代は圧倒的に視覚優位の時代です。もともと人間は、進化の過程で視覚を発達させてきました。視覚において私たちは、より多くの情報を、より明確に、そして瞬時に得ることが出来るからです。一方私たちの聴覚や臭覚は、犬や猫と比べてもいかに貧弱なものであるかは、皆様のよくご存じのことでしょう。そのために私たちは、視覚を中心に外界の情報を得るようになりました。私たちに情報を伝えたいと思う者たちもそのことを良く知っていて、視覚を中心に情報を発信することに努めます。広告宣伝がそうですし、駅などの案内や掲示物も視覚中心です。一部音声のガイダンスもあったりしますが、聞くために時間がかかるので厄介です。ましてや匂いの違いによる行き先案内など聞いたことがありません。このために私たちの身の回りには視覚情報が溢れ返り、私たちはその情報に追いつくだけで精一杯で、毎日の時間が足りないぐらいになっています。こうした状況に対して、文化人類学者で視覚障碍者でもある国立民族学博物館の広瀬浩二郎准教授は、『触る(さわる)文化の復権』を唱えていらっしゃいます。触ることでしか気づけないものがあり、そこから得られる情報は、視覚情報中心につくられた“常識”をくつがえしてしまう可能性があるからです。こうした異なる感覚情報によって、私たちは世界を新しく発見することが出来るようになります。そして自分たちと世界とがより深く多面的に関わっていくことで、もっと自分たちを豊かに生かしていく可能性も拓けてくるようになるのです。広瀬さんはそのために、「健常者」と「障碍者」という区分に替えて、「見常者」と「触常者」という区分で人間を捉えるように提唱されています。人間の中には、感覚機能のうちで“視覚”を中心に見ることを常として生きる人々と、視覚以外の“触覚や聴覚などの感覚”を常として生きる人々がいるという捉え方です。そして「触常者」は、「見常者」に対して視覚優位では気づくことの出来ない情報を提供することによって、私たちの世界に対する認識をさらに深め、新たなイノベーションを起こしていくための契機を提供する役割を果たしていくことが出来ると訴えられるのです。
私たちも五感のみならず、本来“生き物”として有している様々な能力と可能性に目を留めて、これまで気づけなかったものに気づき、これまでに思いも及ばなかった発想を行うことによって、新たな価値を創造していけるように自分を養っていきたいと思います。次回のパンセの集いは5月23日の月曜日、時間は18時からです。場所は初台・幡ヶ谷の地域で行います。
さて前回のパンセ通信でも述べたとおり、1つの文明や社会・経済の仕組みが行き詰ってくると、人々の意識は自分の内面へと向かい始めます。もう1度抜本的に考え直してみなければならなくなるからです。それでは、行き詰まりとはどういう状況のことで、それはなぜ生じてくるのでしょうか。歴史を振り返って見る時、行き詰りとはそのほとんどの場合、社会の外部的要因と内部的要因の両方が相まって問題を惹き起こし、これまでの仕組みが持続できなくなってしまう状況を指します。外部的要因の問題とは、資源やエネルギ-の制約と生存環境の悪化です。社会の仕組みを担う富の源泉たる資源やエネルギ-を、野放図に浪費して資源を枯渇させ、環境を悪化させてしまうのです。内部的要因の問題とは、格差の拡大です。一握りの富める者は、一層の富を求めて持てる資産を活用して投資し、また自分たちの利権を失わないように巧妙に権力を行使します。そのために富はますます富裕層に集中し、一方で中産階級は没落し、大多数の庶民はその乏しい蓄積までをも巻き上げられて、生活の余裕を失っていきます。こうして格差が拡大するばかりでその解消が困難となった社会では、庶民は無気力化して社会は停滞し、一部の者はたまりかねて暴動を起こすなどして治安は悪化していきます。さらに危機を深化させるのは、富を牛耳る権力層とそれに仕える官僚等のエリート階層が、自分たちの利権を守るために、すでに制度疲労を起こしているシステムの延長上でしかものごとを考えられなくなってしまうことです。そしてもはや誰も社会全体の利益について考える者がいなくなってしまうのです。現在もまたこうした行き詰まりの状態にあることは間違いなく、エリート層も私たちも、現在の社会・経済システムの延長線上には、将来を展望することが出来なくなってしまっているのです。
こうした状況に陥ると、私たちは為す術なく無気力化していきます。選挙の投票率も低迷して、まともに考えれば不安が増すだけなので、思考停止しているかのようにその日を送って問題を先送りしていきます。特に将来を担う若い世代の人たちに、この傾向は顕著です。少子高齢化が進む日本では、若者は人口比においてマイノリティ-で、社会の枢要なポストを締めようにも未だ届かず、経験も豊富ではありません。そのために無力感は、壮年層や高齢者層が感じるよりも一層深いものとなってしまうのです。
それでは若者たちを筆頭に無力化した私たちは、本当に思考停止して、破滅に至る時までただ漫然と時を過ごしているのでしょうか。外見的には、自分たちの生活を左右するはずの社会に対して、諦めの境地もあって物申さないものですから、何も考えていないように見られても仕方がありません。しかし私たちの心が、動きを止めるようなことなんて断じてあり得ません。意識は重病に伏している時でさえ目まぐるしく働き続け、都度何かを感じ、何かを求め、何かを思い、何かを意欲して考え続けているのです。思考停止しているのは、自分ではどうにもならない社会全体の制度や政策に対してだけであって、その分意識は、自分で何とかすることの出来る身の回りの範囲に向けれ、そこで余計に目まぐるしく働くことになるのです。しかしその身の回りの些細な日常においてさえも、人間関係で傷つき、自分の思いどおりになる1つのことも無くなってしまうと、意識は最後に残されて自分のものとして自由になる、自分の心へと向かわざるを得なくなっていくのです。こうして人間の意識が内面へと向かうようになる時、私たちはこれまでの社会では気づけなった、新たな価値観を生み出していく可能性ヘと開かれていくのです。
それではその可能性は、どのように開かれていくのでしょうか。格差に虐げられつつ何とか日々を暮らす私たちは、閉塞感漂う社会の中で希望を奪われて、ギャンブルやオタク趣味や、日々の金銭勘定に一喜一憂してセコく生きるということが、普通の状態になっていきます。しかしそのセコい日常にも疲れ果てて生き苦しく、生の実感も生きる意味も感じられなくなってしまうという人も多数現れてきます。そんな状態に陥った時に私たちの意識は、自分と世界についてどのような捉え方をしていくのでしょうか。自分の存在感さえ希薄に思えるのですから、もはやどんな政治思想や文化的価値観にも、心が躍って意識が反応するというようなことは無くなるでしょう。例えファシズムのうねりに社会が飲み込まれようとしていても、どこかその状況を虚ろに眺めているのが関の山ということになるでしょう。自分のことで手一杯で、他人の価値観などにかかずらっている余裕など無いからです。生の実感も生きる意味も感じられないのですから、“意識”はまず自分を取り戻していくために働かざるを得ません。自分を取り戻すというのは、まずは自分が確かに実感できるものから、確認を積み上げていくということでしかありません。本当に自分にとって心地よく感じられるもの、本当に自分にとって好ましく思われるもの、本当に自分の心が惹かれるものを1つ1つ確認していくというように、自分の感覚にまで遡って確かさを実感し直していく作業を行っていく他はありません。この時自分に確かさの感覚を与えてくれるのは、視覚よりもその他の五感の方か優れた役割を果たしてくれるのです。こうして“意識”は、自分自身の感覚の確かさから始めて、自分にとっての根本的な世界の捉え直しを始めていくのです。心地よさ、好ましさ、心惹かれる思いが合わさって、意識は次第に自分の“求め”もはっきりと確かなものにしていきます。この誰のものでもない“自分の求め”に気づいて、その求めを充たすことで自分を生かしていけるように、確かな実感に基づいて自分の納得のいく世界像を組み上げていく。“意識”はこのように働き、まごうこと無く自分を軸として、自分を生かす価値観と、自分にとって意味のある世界観をもたらしていってくれるのです。
現在私たちの多くは、多かれ少なかれ引き籠りのオタク状態にあるのが普通で、潜り込んだ自分の蛸壺から恐る恐る外界を眺めるだけの存在になっています。しかし実は、そんな内に籠った情けない状態にこそ、歴史的な意味と可能性があるのです。その時に自分を、無理に蛸壺から引き出そうとして意識を働かせてはいけません。ありのままの素直な自分が求めるままに、自然に意識を働かせるのです。そうすれば先に述べたように、意識は自分を軸として世界を組み上げ直していってくれるのです。蛸壺から出るのではなく蛸壺に居たままで、世界には自分を生かす可能性があり、自分にとって意味と価値あるものへと変えていける希望のあることに気づかせてくれるのです。しかし原理的には意識はこのように働くはずなのですが、実際にはそうはうまくいきません。私たちが引き籠り状態にあるとはいえ、現代は膨大な情報が流れて意識と欲望を刺激し、私たちの実感や本当に自分にとって必要なものについての感覚を攪乱してしまうからです。さらには私たちの認識の囚われと思い込みが、自然な意識の働きを妨げてしまうからです。例えば「引き籠りは悪」という思いがすぐに起こってきて、ありのままの自分を受け入れられません。また世の中が停滞して可能性が狭まるにつれて、自分も挫折して傷つくことが多く、どうせ自分はダメなんだといういじけた性根が頭をもたげてきて、意識が自由に働いて自分の可能性を指し示すことを妨げてしまうのです。
こうした妨げの力を排除して、意識の自然な働きにまかせていくためにはどうすれば良いのでしょうか。そのためにはやはりあるテクニックが必要で、その技法が瞑想法なのです。普段は外界の変化を捉えようとして自分から外側へと向かう意識の働きを、自分自身の内面の変化を捉えるために内観する方向へと向け変えるのです。この自分の意識を内観する方法につきましては、丁度1年前に書いたパンセ通信No.33『瞑想が拓く、生死を越えたいのちのつながり』でもご紹介しておりますが、ここでその内容を、もう少し詳しく見ていくことにしたいと思います。
内観法の原則は、意識を自分の内面に向けるために、自分の外から入ってくる情報をシャットアウトすることです。キリスト教においても主イエス・キリストは、「祈る時には奥まった自分の部屋に入って、戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(マタイ福音書6:6)と教えておられます。ここで言う自分の部屋というのは納屋のことで、当時のユダヤの納屋は窓が無く、戸を閉めると真っ暗になったそうです。別に真っ暗にしなくても良いですから、せめてテレビやスマホやPCのスイッチを切って静かにして、カーテンなども閉めて薄暗くした方が良いでしょう。自分の欲望を刺激したり気を惹くような情報を、なるべく遮断してしまうのです。さらに体も固定して、なるべくじっとしている方が良いでしょう。自分の心に向き合う以外には、余分な意識が働かないようにするのです。座禅において、結跏趺坐(けっかふざ)や半跏趺坐の足の組み方をして坐るのは、そのためです。禅の世界では“坐る”ということは、木や石などのように、自分自身が自然の一部として“ただ在る”だけの存在になることを意味します。意識の主体として自分から判断することを止めて、大地自然の一部そのものとなっていくのです。
さてこのように外部からの情報を遮断して身体も固定すれば、意識は自分の内面に向かわざるを得なくなっていきます。それでは、意識が内面に向かうというのはどういうことなのでしょうか。実際このような状態に自分を置いて意識が働くままにしてみると、心の中に様々な雑念が起こっては消えていくのが分かります。これまで大量に外部から取り込んだ記憶情報を、自分の脳が処理して整理し直しているのです。この雑念とは、何らかの意味で自分が気掛りとなっている情報で、その雑念を自分の外から眺めるようにして、「なんだ自分はこんなことを気にかけていたんだ」と気づいていくのです。それでは自分が気に掛かっている情報とは、いったいどういう過去の出来事なのでしょうか。それを知るためには、多少“意識”というものの働き方について、その特徴的な傾向を理解しておかなければなりません。私たちは無数の出来事が次々と生じて変化している世界の中に生きているのですが、そのすべてを私たちの意識は捉えることなど出来ません。その中で自分にとって意味と価値あるものだけに焦点を当てて、意識は局所的に捉えることが出来るだけなのです。例えば目的地の途中にツツジの花が咲いていたとすると、私たちの意識は、これを道案内の目印として捉えて記憶します。道筋のすべての風景を意識しているわけではありません。しかしこうして局所的に意識が捕えた対象も、現実は刻一刻と変化していくのですから、咲いていたツツジの花もやがて咲き終わってしまいます。このように意識は、何かに焦点を当てて局所的に捉え、それを固定して記憶するという傾向があります。しかし現実は諸行無常で、意識が捉えた時点からは刻々と変化を遂げていくのです。“気に掛かる”ということは、私たちの意識が固定して記憶に定着させたものと、既に変化した現実との間でギャップが生じており、注意せねばならないと知らせる無意識からの警告なのです。「鍵をかけ忘れたかも」と気に掛かるのも、こうした警告の働きなのです。座禅において自分が“ただ在る”だけの存在になるというのは、固定化する意識を離れて、生々流転する自然の方に身を置いて自分を眺めてみることの必要を諭しているのです。
このように考えてくると、自分自身の雑念を観察してみるということが、じつに様々なものを私たちに教えてくれることが分かってきます。雑念から、自分がどんなことを気にする人間なのかということが分かってきて、自分を知る手掛かりが見えてきます。また“気になる”ことには、何がしかの自分の求めが潜んでいるのですから、そこから自分の深いところにある求めについても、察することが出来るようになってきます。さらに自分がなぜそのことが気掛りになっているのかについてもう1度よく見直してみることによって、自分の意識と変化した現実とのギャップに思いが至るようになり、様々に見落としていた事実に気づけるようにもなってきます。内観によってもたらせられるのは、必死に考えて思いつく新しいアイデアというよりは、自然に気づいて危険を察知したり、脱力状態でふと気づいて新しい可能性を見出していくというようなプロセスでしょうか。イノーベーションを起こすというよりは、インスピレーションによって自然にいろいろなものが見えてくるのです。
しかしこの自分の意識を内観するプロセスにおいても、注意しなくてはならないことがあります。それは意識が感情を伴うものであり、また人間が常に自分の計(はから)いで生きていく存在であることに由来するものです。まず意識が感情に引きずられると、例えば喧嘩相手の顔が心に浮かんで来た時に、なぜ喧嘩になったのかと観察してみる前に、その相手の悪い所ばかりが意識に浮かんできて、憎さが一層募るというようなことになってしまいます。また意識が人間の計らいに引きずられると、“意識的”な捉え方しか出来なくなる傾向が出てきます。例えば雑念を観察して、新しい可能性を見出そうと“意識的”になると、気づけるものも気づけなくなってしまいます。意識を感情の影響からも計らいの影響からも解き放ち、私たちの意識を内観する“意識”を、無理なく自然な状態で働かせるためには、瞑想・内観法を行う以前に、もう1つ別のテクニックが必要になってきます。それが呼吸法に代表される身心を自然状態に移す技法です。“意識”には本来、私たちを生かすために様々にものごとを捉えて可能性に気づかせる働きがあります。この本来的な働きを作動させて、その働きに委ねていくためには、私たちの身体や神経や気分を出来るだけ自然で無理なくリラックスさせて、心地よい状態にしていくことが効果的です。心身一如と言いますが、身体と心とは一体なので、身体から心に影響を与えていくのです。さらに“意識”が意識的になることを避けるためには、意識と無意識との境界領域に自分の心を持っていって、“意識的”になれなくする状態に自分を持って行くことも有効です。そのため方法が、呼吸法と整体と気功なのです。私たちの中枢神経と自律神経に作用する呼吸法は特に重要で、一般的に瞑想は呼吸法と一体で行われます。さらに身体を自然なバランスに整える整体と、大地自然の大きないのちの流れと自分の気持ちをあわせてリフレッシュしていく気功をあわせれば、私たちの“意識”は本来の自然さで働いて、内観の効果は高まっていくことでしょう。
呼吸法と整体と気功で心身を整えていための具体的な方法と、さらにその上での内観・瞑想の具体的なプロセスについて検討し、そこで得たものを自分の行いに移していく“祈り”についても考えていってみたいと思います。今週は伊勢志摩でG7サミットがあり、オバマ大統領が広島を訪問し、その一方で沖縄ではまたしても米軍関係者による暴行殺害事件が発生しております。そしてG7の後は、国政選挙が待ち受けています。私たちが蛸壺の引き籠り状況にあるとはいえ、こうした政治・社会状況も、私たちの意識はしっかりと捉えております。こうした出来事の1つ1つについて、私たちがどのように自分の中で意識して捉えているのか。その捉え方の個々の内容についても探っていけば、いろいろなことに気づき、可能性も見えてくるかと思われます。次回のパンセの集いは5月22日の月曜日、16時からです。お時間許す方はご参加下さい。また5月30日のパンセ集いでは、幡ヶ谷ホームシアターサークルの第1回上映会も兼ねて実施し、名画鑑賞を通じて、私たちのいのちの力を養っていきたいと思います。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)
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『耳で見て目で聞き、鼻で物食ふて口で嗅がねば、神はわからず』- 第二次世界大戦前に、京都の綾部で世直しを唱えて大弾圧を被った、大本教の出口王仁三郎教祖の言葉です。私たちは五感(さらには五感を通じて六感も)を駆使するのでなければ、本当のことは分からないということです。さらに鎌倉末期の禅僧大燈国師も『耳に見て、目に聞くならば疑わじ、おのずからなる軒の玉水』と読んでいます。私たちが1つの感覚にこだわることなく、物事を総合的に捉えることが出来るならば、軒から滴り落ちる水の音にも、大地自然のすべてを生かすいのちの営みを感じ取ることが出来る。そして自分は一人無力なのではなく、自分もまたこの大いなるいのちの営みに与(あずか)っているのを知ることができると、禅師は私たちに教えるのです。
現代は圧倒的に視覚優位の時代です。もともと人間は、進化の過程で視覚を発達させてきました。視覚において私たちは、より多くの情報を、より明確に、そして瞬時に得ることが出来るからです。一方私たちの聴覚や臭覚は、犬や猫と比べてもいかに貧弱なものであるかは、皆様のよくご存じのことでしょう。そのために私たちは、視覚を中心に外界の情報を得るようになりました。私たちに情報を伝えたいと思う者たちもそのことを良く知っていて、視覚を中心に情報を発信することに努めます。広告宣伝がそうですし、駅などの案内や掲示物も視覚中心です。一部音声のガイダンスもあったりしますが、聞くために時間がかかるので厄介です。ましてや匂いの違いによる行き先案内など聞いたことがありません。このために私たちの身の回りには視覚情報が溢れ返り、私たちはその情報に追いつくだけで精一杯で、毎日の時間が足りないぐらいになっています。こうした状況に対して、文化人類学者で視覚障碍者でもある国立民族学博物館の広瀬浩二郎准教授は、『触る(さわる)文化の復権』を唱えていらっしゃいます。触ることでしか気づけないものがあり、そこから得られる情報は、視覚情報中心につくられた“常識”をくつがえしてしまう可能性があるからです。こうした異なる感覚情報によって、私たちは世界を新しく発見することが出来るようになります。そして自分たちと世界とがより深く多面的に関わっていくことで、もっと自分たちを豊かに生かしていく可能性も拓けてくるようになるのです。広瀬さんはそのために、「健常者」と「障碍者」という区分に替えて、「見常者」と「触常者」という区分で人間を捉えるように提唱されています。人間の中には、感覚機能のうちで“視覚”を中心に見ることを常として生きる人々と、視覚以外の“触覚や聴覚などの感覚”を常として生きる人々がいるという捉え方です。そして「触常者」は、「見常者」に対して視覚優位では気づくことの出来ない情報を提供することによって、私たちの世界に対する認識をさらに深め、新たなイノベーションを起こしていくための契機を提供する役割を果たしていくことが出来ると訴えられるのです。
私たちも五感のみならず、本来“生き物”として有している様々な能力と可能性に目を留めて、これまで気づけなかったものに気づき、これまでに思いも及ばなかった発想を行うことによって、新たな価値を創造していけるように自分を養っていきたいと思います。次回のパンセの集いは5月23日の月曜日、時間は18時からです。場所は初台・幡ヶ谷の地域で行います。
さて前回のパンセ通信でも述べたとおり、1つの文明や社会・経済の仕組みが行き詰ってくると、人々の意識は自分の内面へと向かい始めます。もう1度抜本的に考え直してみなければならなくなるからです。それでは、行き詰まりとはどういう状況のことで、それはなぜ生じてくるのでしょうか。歴史を振り返って見る時、行き詰りとはそのほとんどの場合、社会の外部的要因と内部的要因の両方が相まって問題を惹き起こし、これまでの仕組みが持続できなくなってしまう状況を指します。外部的要因の問題とは、資源やエネルギ-の制約と生存環境の悪化です。社会の仕組みを担う富の源泉たる資源やエネルギ-を、野放図に浪費して資源を枯渇させ、環境を悪化させてしまうのです。内部的要因の問題とは、格差の拡大です。一握りの富める者は、一層の富を求めて持てる資産を活用して投資し、また自分たちの利権を失わないように巧妙に権力を行使します。そのために富はますます富裕層に集中し、一方で中産階級は没落し、大多数の庶民はその乏しい蓄積までをも巻き上げられて、生活の余裕を失っていきます。こうして格差が拡大するばかりでその解消が困難となった社会では、庶民は無気力化して社会は停滞し、一部の者はたまりかねて暴動を起こすなどして治安は悪化していきます。さらに危機を深化させるのは、富を牛耳る権力層とそれに仕える官僚等のエリート階層が、自分たちの利権を守るために、すでに制度疲労を起こしているシステムの延長上でしかものごとを考えられなくなってしまうことです。そしてもはや誰も社会全体の利益について考える者がいなくなってしまうのです。現在もまたこうした行き詰まりの状態にあることは間違いなく、エリート層も私たちも、現在の社会・経済システムの延長線上には、将来を展望することが出来なくなってしまっているのです。
こうした状況に陥ると、私たちは為す術なく無気力化していきます。選挙の投票率も低迷して、まともに考えれば不安が増すだけなので、思考停止しているかのようにその日を送って問題を先送りしていきます。特に将来を担う若い世代の人たちに、この傾向は顕著です。少子高齢化が進む日本では、若者は人口比においてマイノリティ-で、社会の枢要なポストを締めようにも未だ届かず、経験も豊富ではありません。そのために無力感は、壮年層や高齢者層が感じるよりも一層深いものとなってしまうのです。
それでは若者たちを筆頭に無力化した私たちは、本当に思考停止して、破滅に至る時までただ漫然と時を過ごしているのでしょうか。外見的には、自分たちの生活を左右するはずの社会に対して、諦めの境地もあって物申さないものですから、何も考えていないように見られても仕方がありません。しかし私たちの心が、動きを止めるようなことなんて断じてあり得ません。意識は重病に伏している時でさえ目まぐるしく働き続け、都度何かを感じ、何かを求め、何かを思い、何かを意欲して考え続けているのです。思考停止しているのは、自分ではどうにもならない社会全体の制度や政策に対してだけであって、その分意識は、自分で何とかすることの出来る身の回りの範囲に向けれ、そこで余計に目まぐるしく働くことになるのです。しかしその身の回りの些細な日常においてさえも、人間関係で傷つき、自分の思いどおりになる1つのことも無くなってしまうと、意識は最後に残されて自分のものとして自由になる、自分の心へと向かわざるを得なくなっていくのです。こうして人間の意識が内面へと向かうようになる時、私たちはこれまでの社会では気づけなった、新たな価値観を生み出していく可能性ヘと開かれていくのです。
それではその可能性は、どのように開かれていくのでしょうか。格差に虐げられつつ何とか日々を暮らす私たちは、閉塞感漂う社会の中で希望を奪われて、ギャンブルやオタク趣味や、日々の金銭勘定に一喜一憂してセコく生きるということが、普通の状態になっていきます。しかしそのセコい日常にも疲れ果てて生き苦しく、生の実感も生きる意味も感じられなくなってしまうという人も多数現れてきます。そんな状態に陥った時に私たちの意識は、自分と世界についてどのような捉え方をしていくのでしょうか。自分の存在感さえ希薄に思えるのですから、もはやどんな政治思想や文化的価値観にも、心が躍って意識が反応するというようなことは無くなるでしょう。例えファシズムのうねりに社会が飲み込まれようとしていても、どこかその状況を虚ろに眺めているのが関の山ということになるでしょう。自分のことで手一杯で、他人の価値観などにかかずらっている余裕など無いからです。生の実感も生きる意味も感じられないのですから、“意識”はまず自分を取り戻していくために働かざるを得ません。自分を取り戻すというのは、まずは自分が確かに実感できるものから、確認を積み上げていくということでしかありません。本当に自分にとって心地よく感じられるもの、本当に自分にとって好ましく思われるもの、本当に自分の心が惹かれるものを1つ1つ確認していくというように、自分の感覚にまで遡って確かさを実感し直していく作業を行っていく他はありません。この時自分に確かさの感覚を与えてくれるのは、視覚よりもその他の五感の方か優れた役割を果たしてくれるのです。こうして“意識”は、自分自身の感覚の確かさから始めて、自分にとっての根本的な世界の捉え直しを始めていくのです。心地よさ、好ましさ、心惹かれる思いが合わさって、意識は次第に自分の“求め”もはっきりと確かなものにしていきます。この誰のものでもない“自分の求め”に気づいて、その求めを充たすことで自分を生かしていけるように、確かな実感に基づいて自分の納得のいく世界像を組み上げていく。“意識”はこのように働き、まごうこと無く自分を軸として、自分を生かす価値観と、自分にとって意味のある世界観をもたらしていってくれるのです。
現在私たちの多くは、多かれ少なかれ引き籠りのオタク状態にあるのが普通で、潜り込んだ自分の蛸壺から恐る恐る外界を眺めるだけの存在になっています。しかし実は、そんな内に籠った情けない状態にこそ、歴史的な意味と可能性があるのです。その時に自分を、無理に蛸壺から引き出そうとして意識を働かせてはいけません。ありのままの素直な自分が求めるままに、自然に意識を働かせるのです。そうすれば先に述べたように、意識は自分を軸として世界を組み上げ直していってくれるのです。蛸壺から出るのではなく蛸壺に居たままで、世界には自分を生かす可能性があり、自分にとって意味と価値あるものへと変えていける希望のあることに気づかせてくれるのです。しかし原理的には意識はこのように働くはずなのですが、実際にはそうはうまくいきません。私たちが引き籠り状態にあるとはいえ、現代は膨大な情報が流れて意識と欲望を刺激し、私たちの実感や本当に自分にとって必要なものについての感覚を攪乱してしまうからです。さらには私たちの認識の囚われと思い込みが、自然な意識の働きを妨げてしまうからです。例えば「引き籠りは悪」という思いがすぐに起こってきて、ありのままの自分を受け入れられません。また世の中が停滞して可能性が狭まるにつれて、自分も挫折して傷つくことが多く、どうせ自分はダメなんだといういじけた性根が頭をもたげてきて、意識が自由に働いて自分の可能性を指し示すことを妨げてしまうのです。
こうした妨げの力を排除して、意識の自然な働きにまかせていくためにはどうすれば良いのでしょうか。そのためにはやはりあるテクニックが必要で、その技法が瞑想法なのです。普段は外界の変化を捉えようとして自分から外側へと向かう意識の働きを、自分自身の内面の変化を捉えるために内観する方向へと向け変えるのです。この自分の意識を内観する方法につきましては、丁度1年前に書いたパンセ通信No.33『瞑想が拓く、生死を越えたいのちのつながり』でもご紹介しておりますが、ここでその内容を、もう少し詳しく見ていくことにしたいと思います。
内観法の原則は、意識を自分の内面に向けるために、自分の外から入ってくる情報をシャットアウトすることです。キリスト教においても主イエス・キリストは、「祈る時には奥まった自分の部屋に入って、戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(マタイ福音書6:6)と教えておられます。ここで言う自分の部屋というのは納屋のことで、当時のユダヤの納屋は窓が無く、戸を閉めると真っ暗になったそうです。別に真っ暗にしなくても良いですから、せめてテレビやスマホやPCのスイッチを切って静かにして、カーテンなども閉めて薄暗くした方が良いでしょう。自分の欲望を刺激したり気を惹くような情報を、なるべく遮断してしまうのです。さらに体も固定して、なるべくじっとしている方が良いでしょう。自分の心に向き合う以外には、余分な意識が働かないようにするのです。座禅において、結跏趺坐(けっかふざ)や半跏趺坐の足の組み方をして坐るのは、そのためです。禅の世界では“坐る”ということは、木や石などのように、自分自身が自然の一部として“ただ在る”だけの存在になることを意味します。意識の主体として自分から判断することを止めて、大地自然の一部そのものとなっていくのです。
さてこのように外部からの情報を遮断して身体も固定すれば、意識は自分の内面に向かわざるを得なくなっていきます。それでは、意識が内面に向かうというのはどういうことなのでしょうか。実際このような状態に自分を置いて意識が働くままにしてみると、心の中に様々な雑念が起こっては消えていくのが分かります。これまで大量に外部から取り込んだ記憶情報を、自分の脳が処理して整理し直しているのです。この雑念とは、何らかの意味で自分が気掛りとなっている情報で、その雑念を自分の外から眺めるようにして、「なんだ自分はこんなことを気にかけていたんだ」と気づいていくのです。それでは自分が気に掛かっている情報とは、いったいどういう過去の出来事なのでしょうか。それを知るためには、多少“意識”というものの働き方について、その特徴的な傾向を理解しておかなければなりません。私たちは無数の出来事が次々と生じて変化している世界の中に生きているのですが、そのすべてを私たちの意識は捉えることなど出来ません。その中で自分にとって意味と価値あるものだけに焦点を当てて、意識は局所的に捉えることが出来るだけなのです。例えば目的地の途中にツツジの花が咲いていたとすると、私たちの意識は、これを道案内の目印として捉えて記憶します。道筋のすべての風景を意識しているわけではありません。しかしこうして局所的に意識が捕えた対象も、現実は刻一刻と変化していくのですから、咲いていたツツジの花もやがて咲き終わってしまいます。このように意識は、何かに焦点を当てて局所的に捉え、それを固定して記憶するという傾向があります。しかし現実は諸行無常で、意識が捉えた時点からは刻々と変化を遂げていくのです。“気に掛かる”ということは、私たちの意識が固定して記憶に定着させたものと、既に変化した現実との間でギャップが生じており、注意せねばならないと知らせる無意識からの警告なのです。「鍵をかけ忘れたかも」と気に掛かるのも、こうした警告の働きなのです。座禅において自分が“ただ在る”だけの存在になるというのは、固定化する意識を離れて、生々流転する自然の方に身を置いて自分を眺めてみることの必要を諭しているのです。
このように考えてくると、自分自身の雑念を観察してみるということが、じつに様々なものを私たちに教えてくれることが分かってきます。雑念から、自分がどんなことを気にする人間なのかということが分かってきて、自分を知る手掛かりが見えてきます。また“気になる”ことには、何がしかの自分の求めが潜んでいるのですから、そこから自分の深いところにある求めについても、察することが出来るようになってきます。さらに自分がなぜそのことが気掛りになっているのかについてもう1度よく見直してみることによって、自分の意識と変化した現実とのギャップに思いが至るようになり、様々に見落としていた事実に気づけるようにもなってきます。内観によってもたらせられるのは、必死に考えて思いつく新しいアイデアというよりは、自然に気づいて危険を察知したり、脱力状態でふと気づいて新しい可能性を見出していくというようなプロセスでしょうか。イノーベーションを起こすというよりは、インスピレーションによって自然にいろいろなものが見えてくるのです。
しかしこの自分の意識を内観するプロセスにおいても、注意しなくてはならないことがあります。それは意識が感情を伴うものであり、また人間が常に自分の計(はから)いで生きていく存在であることに由来するものです。まず意識が感情に引きずられると、例えば喧嘩相手の顔が心に浮かんで来た時に、なぜ喧嘩になったのかと観察してみる前に、その相手の悪い所ばかりが意識に浮かんできて、憎さが一層募るというようなことになってしまいます。また意識が人間の計らいに引きずられると、“意識的”な捉え方しか出来なくなる傾向が出てきます。例えば雑念を観察して、新しい可能性を見出そうと“意識的”になると、気づけるものも気づけなくなってしまいます。意識を感情の影響からも計らいの影響からも解き放ち、私たちの意識を内観する“意識”を、無理なく自然な状態で働かせるためには、瞑想・内観法を行う以前に、もう1つ別のテクニックが必要になってきます。それが呼吸法に代表される身心を自然状態に移す技法です。“意識”には本来、私たちを生かすために様々にものごとを捉えて可能性に気づかせる働きがあります。この本来的な働きを作動させて、その働きに委ねていくためには、私たちの身体や神経や気分を出来るだけ自然で無理なくリラックスさせて、心地よい状態にしていくことが効果的です。心身一如と言いますが、身体と心とは一体なので、身体から心に影響を与えていくのです。さらに“意識”が意識的になることを避けるためには、意識と無意識との境界領域に自分の心を持っていって、“意識的”になれなくする状態に自分を持って行くことも有効です。そのため方法が、呼吸法と整体と気功なのです。私たちの中枢神経と自律神経に作用する呼吸法は特に重要で、一般的に瞑想は呼吸法と一体で行われます。さらに身体を自然なバランスに整える整体と、大地自然の大きないのちの流れと自分の気持ちをあわせてリフレッシュしていく気功をあわせれば、私たちの“意識”は本来の自然さで働いて、内観の効果は高まっていくことでしょう。
呼吸法と整体と気功で心身を整えていための具体的な方法と、さらにその上での内観・瞑想の具体的なプロセスについて検討し、そこで得たものを自分の行いに移していく“祈り”についても考えていってみたいと思います。今週は伊勢志摩でG7サミットがあり、オバマ大統領が広島を訪問し、その一方で沖縄ではまたしても米軍関係者による暴行殺害事件が発生しております。そしてG7の後は、国政選挙が待ち受けています。私たちが蛸壺の引き籠り状況にあるとはいえ、こうした政治・社会状況も、私たちの意識はしっかりと捉えております。こうした出来事の1つ1つについて、私たちがどのように自分の中で意識して捉えているのか。その捉え方の個々の内容についても探っていけば、いろいろなことに気づき、可能性も見えてくるかと思われます。次回のパンセの集いは5月22日の月曜日、16時からです。お時間許す方はご参加下さい。また5月30日のパンセ集いでは、幡ヶ谷ホームシアターサークルの第1回上映会も兼ねて実施し、名画鑑賞を通じて、私たちのいのちの力を養っていきたいと思います。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)