■2016.5.28パンセ通信No.86『伊勢志摩サミットの内容と私たちが有する課題解決能力』
皆 様 へ
伊勢志摩でG7サミットが開催され、またオバマ大統領が広島を訪問致しました。しかし私自身の実感では、これはすごいことで、何か世界にとって重要なことが話し合われ、画期的なことが決せられるといった高揚感はありません。それはもう1975年以来何回も開催されているので、特に珍しいことでは無くなっているからかもしれません。あるいは私たちの生活にとって、特に差し迫って影響を及ぼすことでも無さそうなので、私たちの感性がたいして作動しないからかもしれません。それでも、今このタイミングで先進国の首脳が日本に集うということには意味があり、そこで決める内容にもきっと何らかのメッセージが込められているものと思われます。それについて、私たち自身の感性が捉えられる範囲で少し考えてみたいと思います。
先進国首脳会議といっても、そこに出席する各国の首脳の利害も思惑も異なります。そしてそれぞれの国の内部においても、様々な勢力の間で利害は錯綜しています。まず退任時期の迫るオバマ大統領にとって大切なことは、テロや難民問題等の影響が極力自国に及ばぬようにしつつ、アメリカ企業がグローバル市場で不利益を被ることなく、自由にビジネス出来る機会を守るということでしょう。一方国内では、トランプ旋風に見られるようにアメリカの自国回帰の流れが止まりません。海外で国富を浪費するのではなく、その資金を国内に還流させて、自分たちにも国富の分け前を寄越せというアメリカの庶民や国内事業者からの圧力の高まりがあるからです。そのために日本に対しては、防衛力の分担を担わせるために、安保法制の成立を支持しました。しかし太平洋戦争を引き起こした戦犯国日本に、核兵器を持たせるわけにはいきません。また日本が核を持って、アメリカに対抗する力を持つことも許せることではないでしょう。そこで1963年以来アメリカは、核拡散防止条約(NPT)により、日本が核武装することは断固阻止する方針で臨んできています。オバマ大統領の核廃絶をテーマとした広島訪問も、北朝鮮による核の脅威に対してくすぶる日本の核武装への思惑を抑え、日本の反核世論を喚起するためとも考えられるでしょう。忘れてはいけないのは、アメリカが唱える核廃絶とは、あくまでもアメリカ以外の国における核廃絶であることです。アメリカだけが圧倒的な核を保有することによって、‟アメリカの正義”を世界に実現させ、あわせてアメリカが自国利益を優先しつつ、グローバルパワーを行使し続けることが目的だからです。いずれにせよアメリカにとって、今回のG7が積極的な意味を持つ理由はあまり見当たりません。来年の新大統領の就任にあわせて、間違いなくアメリカの戦略は変化することでしょう。それまでの間オバマ大統領としては、自分の個人的な核廃絶への理想を掲げて有終の美を飾りつつも、アメリカとしては現状が維持できるよう取り繕うというのが本音のところでしょう。
それではヨーロッパはどうでしょうか。ヨーロッパは本当に大変です。EU解体の危機に直面する中で、難民問題やテロ問題を抱えます。EUというのは、欧州統合という高邁な理想の実現を目的とするのですが、その目的の中でも最も重要なことは、欧州市場の統合です。EUはヨーロッパ企業にEUという広大な統一市場を提供しました。しかしその一方で、2つの格差を拡大させてしまいました。まずドイツなどの経済的に強い国と、ギリシアなどの弱い国との格差です。強い国と弱い国が同じ経済圏にあるのですから、当然強い国の企業が市場を席巻し、富は強い国に集中することになります。次いで企業経営者をはじめとした富裕層と、庶民との所得格差です。現在格差拡大で不利益を被る庶民層の不満が、政治的には国家主義的なポピュリズムを台頭させ、民主主義を危機に陥らせています。経済的には、現在の経済構造で利益を得るドイツは現状維持を果たしたいし、南欧などの不利益を被る国々は改善を求めたい。イギリスでは、金融資本がEUの厳しい金融規制を嫌って自由に世界中で儲けたいものですから、不満を募らせる庶民階層を巻き込んで、EU離脱を図ろうと悪あがきを行っています。このようにEUの内実は、政治的にも経済的にも四分五裂の状態ですが、ヨーロッパ主要国の企業にとっては、統一市場の維持は自分たちの死活に関わる問題です。とにかく1つ対応を誤れば、EUの紐帯が一挙に損なわれて統一市場も解体しかねない状況にあるのですから、ヨーロッパの首脳たちにとっては、まるで腫れ物に触るかのごとくに当面の間だけでも現状の秩序が持ちこたえることを願うばかりで、積極的な打開策を打ち出すどころではありません。
このようにアメリカにとってもヨーロッパ主要国にとっても、今回のサミットはせいぜい現状を取り繕って維持させて、何か手が見つかるまで時間を稼ぐといった程度の意味合いしか無かったのですが、日本だけは違いました。安倍首相にとっては、国内向けに随分と意味づけのできるサミットであったようで、狙いははっきりとしていました。まず7月の国政選挙に向けての対策とすることです。経済面においても政治面や環境面においても、現在世界は深刻な事態にあることには間違いありません。そこで安部首相が、G7首脳会議を主導するパフォーマンスを見せれば、世界に対してリーダーシップを発揮したかのように国民には映ります。また広島を訪問するオバマ首相と、戦争犠牲者への追悼と核の無い世界を求めて握手を交わすことも、安倍内閣支持率上昇のポイントになることでしょう。さらには安倍首相がどうしても各国首脳の了解を取り付けておきたかったことは、選挙に向けての景気対策としての、日本における財政出動と消費税増税の見送りです。しかし見落としてはいけないことは、安倍首相にとってはもう1つの重要な国内に向けてのメッセージがあったことです。それは皇祖神の祀られる“伊勢”の地でサミットが開催され、各国首脳が伊勢神宮を訪れるというパフォーマンスを日本の国民に見せるということです。天皇制を求心力とした国家主導の政治形態を目指す安倍首相にとっては、こうしたパフォーマンスを行えることからも、今回のサミットは重要な意味を持ったものだったと思われます。
総じて言えば伊勢志摩サミットの本質は、各国首脳間の貸し借りが様々ある中で、今回は安倍首相の国内向けアピールに先進国首脳が協力したというところでしょうか。あるいは協力や同意を得られずとも、安倍首相にとしては、国内向けのアピールが、国民にだけはまことしやかに伝わればそれで目的達成というところなのかもしれません。いずれにせよ今回の伊勢志摩サミットについては、よく眺めてみると、このように私たちの生活の本質にとっては、さして関わりも重要な影響を及ぼすものでも無いことが分かってきます。しかしそれもまた、私たちが自分の意識が捉えているものを丹念に探ってみた結果として気づき、見えてきたところのものです。この気づきと理解の力を、誰もが自分のものとして身につけて、さらに高めていく方法について検討を深めていきたいと思います。次回のパンセの集いは5月30日の月曜日、時間は18時からです。なお次回は、幡ヶ谷ホームシアターサークルの第1回上映会を行うこととし、名画を通じて私たちのいのち力を高めていくための取り組みともしたいと思います。場所につきましては、初台・幡ヶ谷の地域で行います。
さてG7の首脳たちによる、伊勢志摩サミットにおける茶番劇はさておくとして、今世界の主要国が直面している本当の深刻な問題は、格差の拡大が臨界点に達しつつあるということでしょう。庶民層の不満は排外主義や自国優先のポピュリズム政党の躍進といううねりで現れ、グローバル資本主義によって富裕層が自分たちに利益を集中させてきた構図に歯止めをかけ、軋みを生じさせ始めています。こうした状況の中で私たちが指針とするのは、あくまでも自分の生活の利益と幸せに基点を置くことでしょう。そのために今私たちには、世界的に見て2つの選択肢が示されているように思います。1つは国家に権力を集中させて、その国家に主権を委ねて強力に私たちの生活を向上させていく方法です。もう1つは本来の国民主権を徹底させて、国民自らの手で協力して、自分たちの幸せを向上させていく方法です。現実にはこの2つの区別があいまいなままに、その時の社会の気分の高揚に流されて一緒くたになって政治は進んでいくのですが、どちらが私たちの利益と幸せをより良く実現していくことが出来るのか、本当は方法論としてのこの2つの選択肢の区別を、よく弁(わきま)えておかなければなりません。
そもそも国家が成立する第1の理由は、治安の維持と秩序の形成です。治安が保たれ、ルールが守られれば、私たちは安心して生産活動や商業活動に従事することが出来、国家の全体も私たちの生活も富ませることが出来るからです。それ故にその対価として、国民は国家に税金を納めます。これが国家の成立の最初の形態です。この目的が達成されるのであれば、統治の原理は現在のISなどのように、“恐怖”による支配であっても構わないのです。このように治安の維持と秩序の形成は、最も基本的な国家の目標であって、この目標の達成のためには、国家主権という体制はきわめて優れた方法でしょう。さて第2段階の国家の目標は、国民の生存の保障です。国民の生存保障の初期の形態は、災害対策や飢饉の対策、あるいはその予防措置としての治山治水です。この歴史も随分と古く、すでに聖書の創世記のヨセフ物語の中で、古代のエジプト王国が備蓄した穀物によって7年間もの飢饉を乗り切り、さらに周辺諸国の住民までも援助した話が出ています。日本の幕藩体制においても、藩の治世の優劣と繁栄は、災害対策にかかっていたことが見て取れます。一方、国民の誰もが最低限生きて暮らしていけるように社会的に保障するという近代的な生存権の概念は、18世紀の市民革命と共に現れ、日本国憲法の25条にも国民の権利として明文化されています。しかしおよそこの目標を完全に達成した国は、未だかつてこの地球上には存在していません。それどころか今回の熊本大震災における激甚災害指定の遅れや、罹災証明書の発行が進まない状況を見ていると、災害対策すら国家の基本目標としてきちんと位置付けられていないのではないかと、心許(こころもと)なく思えてきてしまいます。特に明治以降の日本を幕藩体制と比べると、国民のいのちと生活の保障を国家の基本目標として本当に据えてきたのかどうか、疑わしくなる思いがしてきます。ただそれはそうとしてこの第2段階の国家の目標の実現についても、国家主権は相当効率的に機能することと思われます。その反面国家主権においては、国民一人一人の生存よりも国家全体の利益を優先することが原理となるのですから、国家の存続のために国民に犠牲を強いるということも生じてくることになるでしょう。
さて第3段階の国家目標は、国民一人一人が自分を生かし、それぞれに幸せになっていくことを国家が調整し、支援していくというものです。日本国憲法の13条、幸福追求権をさらに国家の責務として定める内容です。この段階になると、もはや国家主権は通用しません。一人一人の生き方は多様で、幸せの内容も異なってくるからです。一つの価値観、一定の幸せモデルをもって統制していくことは、国家主権の得意とするところですが、千差万別の幸せ追及を満たす最適値を計算しきって提供することなど出来ようはずはありません。それは高度な人工知能をもってしても不可能なことでしょう。国民主権によって、各人が相互に調整しあうことによってでしか千差万別の幸福を満たすことは出来ず、その自律的な調整の過程で各人間の幸福に過不足の生じないようにバランスを取り、さらに全体の総和としての幸せをも増進させていくことが国家の役割として求められてくることになります。以上のように国家の原理的な目標を3段階に分けて考えてみましたが、じつはこの3つの目標は相関していて、本当に一人一人の利益と幸せの実現を保証することを目的に権力が行使されるのでなければ、生存権は蔑(ないがし)ろにされる可能性が出てきます。また権力が腐敗して、権力者が国家を自分の私腹を肥やす道具としてしか扱わなくなるような事態も生じてくることがあって、現在のアフリカの諸国のように、賄賂ばかりが横行して治安も法秩序も維持されなくなるようなことが起こってきてしまうのです。
ところで1980年代の日本のように、社会が安定的に成長している時代には、国家の役割は、政治的に圧力を持つ団体間の利益調整だけでも十分だったことでしょう。しかし社会が混迷し、将来のビジョンが描けなくなってくると、私たちはもう1度自分自身の利益と幸せに立ち返って、国家の役割についても先に検討したように、その原理的な機能にまで遡って考えてみなければなりません。そして自分の利益と幸せを保障するために、当面どの段階の役割までを求めるのが現実的なのか、またどういう方法によれば自分の求めがより確実に実現できるのかを、考えてみる必要が生じてきます。安倍首相が進める国家主権による方法によっても、私たちの生活を守り、幸福を増進させていくことは可能でしょう。特に国家の役割として、当面は生存権の保障までを重視するのであれば、国家主権は現実的で効率性の高い方法と言えるでしょう。実際に戦前の天皇制大日本帝国やナチスドイツ、あるいは社会主義ソビエトのように、具体的な政権運営のモデルも過去には存在しています。ただし国家への求心力を高めるために、どうしても他国の脅威を煽って排外主義的になったり、内部にユダヤ人のような弾圧の対象をつくる必要が生じてきます。またすでに述べたように、国家の主権を優先するために国民の利益や生存が犠牲にされるケースも生じてきます。伊勢志摩サミット開催直前に、沖縄で米軍関係者による女性の暴行殺害事件が発生しましたが、これに対して国家主権的理念で動く安倍政権の内部から、“最悪のタイミング”という声が漏れてきたのも当然です。国家主権においては、国民一人のいのちと、国家全体の利益あるいは“公益および公の秩序”と比べた場合、国家全体の利益の方が重視されることは当たり前だからです。しかし私たちは、戦前と同じ過ちを繰り返すことは出来ません。もし私たちが国家主権を選択していくのであれば、どうしても今述べたような国家主権に内在する危険性を回避する手立てを見つけて、対策を講じていかなければなりません。しかしこれはなかなか難しく、その解決のためには至難の技が求められてくるところでしょう。
一方国民主権において、ましてや国家に国民の幸せを保障するまでの役割を期待する場合には、現在のところそれを実現するためのモデルがありません。理念と形式だけの民主主義は世界中に存在しますが、本気で国民すべての幸せを求めたり、本当にそれを実現した国など存在しないからです。国民主権にもとづく、国民一人一人の幸せを実現する民主主義の政体は理想的で麗しいのですけど、それを担うだけの個々人の力量も、そのための政治・経済のシステムを運営するノウハウも、私たちは持ちあわせていません。それなのにもし理念だけ掲げてうっかり政権でも取ったものなら、前回の民主党政権の時以上に、私たちの国は大変な混乱に陥ることになってしまうでしょう。
このように現在の私たちが、安倍首相が推進するような国家主権の道を選択しようが、国民主権の道を選択しようが、どちらに行ってもその道筋の先は危ういことだらけで、自分の利益と幸せを保障するための答えは見出せてきません。それでは私たちは、もはやどうしようも無い状態にあるのでしょうか。いいえそんなことはありません。私たちの意識は、言語化できないレベルでの直観までも含めて、じつに膨大なデータを世界から読み取って、無意識の領域に蓄積しています。また私たちの脳は、未だその能力の何パーセントしか稼働させていません。答えを導き出すためのヒントとなる情報は、すでに私たちの意識の中に取り込まれていて、私たちがそれに気づけていないだけなのです。またその情報をもとに答えを導きだすための思考回路も、すでに脳の中に組み込まれていて、私たちがそれをうまく作動させることが出来ていないだけなのです。
そんな私たちの意識の中に取り込まれている大切な情報に気づき、使いこなせていない脳の思考回路を作動せる方法が、自分自身の意識を精査する内観法(瞑想と祈り)によって見出せてくるのです。内観法は特別の能力でもなんでもなく、誰にでも出来るごく当たり前の技法なのです。もちろん、私たちが自転車を乗りこなすために少々の練習が必要なのと同じように、普段は用いていない意識の働せ方と思考方法を行えるようになるために、ちょっとしたトレーニングは必要となりますけれども。今回は伊勢志摩サミットもあって、政治と国家のあり方という、およそ私たちの日常生活とは縁遠い話題に終始してしまいました。しかし一見難しそうに感じられるそうしたテーマについても、実は私たちは、その気になれば様々なことに気づくことが出来るのです。また自分の利益と幸せの実現のために、政治と国家はどうあれば良いか、さらにそんな政治と国家の実現のために、何をどこから手をつけていけば良いのかが見えるようになってくるのです。普通の人間がそう出来るようにならなければ、私たちの国の社会も経済を変えていくことは出来ません。
次回のパンセの集いは5月30日の月曜日、16時からです。次回は私たちのいのちの力を養うことを目的とした、幡ヶ谷ホームシアターサークルの上映会です。人生の疑似体験を提供する映画から学ぶことによって、私たちは気づきの力を高め、内観法において自分自身の意識を探る際に見いだせるものも、一層多くなるものと思われます。そしてその次の回の6月6日月曜日のパンセの集いでは、内観法の実際について、その具体的な技法の詳細を検討していってみたいと思います。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)
皆 様 へ
伊勢志摩でG7サミットが開催され、またオバマ大統領が広島を訪問致しました。しかし私自身の実感では、これはすごいことで、何か世界にとって重要なことが話し合われ、画期的なことが決せられるといった高揚感はありません。それはもう1975年以来何回も開催されているので、特に珍しいことでは無くなっているからかもしれません。あるいは私たちの生活にとって、特に差し迫って影響を及ぼすことでも無さそうなので、私たちの感性がたいして作動しないからかもしれません。それでも、今このタイミングで先進国の首脳が日本に集うということには意味があり、そこで決める内容にもきっと何らかのメッセージが込められているものと思われます。それについて、私たち自身の感性が捉えられる範囲で少し考えてみたいと思います。
先進国首脳会議といっても、そこに出席する各国の首脳の利害も思惑も異なります。そしてそれぞれの国の内部においても、様々な勢力の間で利害は錯綜しています。まず退任時期の迫るオバマ大統領にとって大切なことは、テロや難民問題等の影響が極力自国に及ばぬようにしつつ、アメリカ企業がグローバル市場で不利益を被ることなく、自由にビジネス出来る機会を守るということでしょう。一方国内では、トランプ旋風に見られるようにアメリカの自国回帰の流れが止まりません。海外で国富を浪費するのではなく、その資金を国内に還流させて、自分たちにも国富の分け前を寄越せというアメリカの庶民や国内事業者からの圧力の高まりがあるからです。そのために日本に対しては、防衛力の分担を担わせるために、安保法制の成立を支持しました。しかし太平洋戦争を引き起こした戦犯国日本に、核兵器を持たせるわけにはいきません。また日本が核を持って、アメリカに対抗する力を持つことも許せることではないでしょう。そこで1963年以来アメリカは、核拡散防止条約(NPT)により、日本が核武装することは断固阻止する方針で臨んできています。オバマ大統領の核廃絶をテーマとした広島訪問も、北朝鮮による核の脅威に対してくすぶる日本の核武装への思惑を抑え、日本の反核世論を喚起するためとも考えられるでしょう。忘れてはいけないのは、アメリカが唱える核廃絶とは、あくまでもアメリカ以外の国における核廃絶であることです。アメリカだけが圧倒的な核を保有することによって、‟アメリカの正義”を世界に実現させ、あわせてアメリカが自国利益を優先しつつ、グローバルパワーを行使し続けることが目的だからです。いずれにせよアメリカにとって、今回のG7が積極的な意味を持つ理由はあまり見当たりません。来年の新大統領の就任にあわせて、間違いなくアメリカの戦略は変化することでしょう。それまでの間オバマ大統領としては、自分の個人的な核廃絶への理想を掲げて有終の美を飾りつつも、アメリカとしては現状が維持できるよう取り繕うというのが本音のところでしょう。
それではヨーロッパはどうでしょうか。ヨーロッパは本当に大変です。EU解体の危機に直面する中で、難民問題やテロ問題を抱えます。EUというのは、欧州統合という高邁な理想の実現を目的とするのですが、その目的の中でも最も重要なことは、欧州市場の統合です。EUはヨーロッパ企業にEUという広大な統一市場を提供しました。しかしその一方で、2つの格差を拡大させてしまいました。まずドイツなどの経済的に強い国と、ギリシアなどの弱い国との格差です。強い国と弱い国が同じ経済圏にあるのですから、当然強い国の企業が市場を席巻し、富は強い国に集中することになります。次いで企業経営者をはじめとした富裕層と、庶民との所得格差です。現在格差拡大で不利益を被る庶民層の不満が、政治的には国家主義的なポピュリズムを台頭させ、民主主義を危機に陥らせています。経済的には、現在の経済構造で利益を得るドイツは現状維持を果たしたいし、南欧などの不利益を被る国々は改善を求めたい。イギリスでは、金融資本がEUの厳しい金融規制を嫌って自由に世界中で儲けたいものですから、不満を募らせる庶民階層を巻き込んで、EU離脱を図ろうと悪あがきを行っています。このようにEUの内実は、政治的にも経済的にも四分五裂の状態ですが、ヨーロッパ主要国の企業にとっては、統一市場の維持は自分たちの死活に関わる問題です。とにかく1つ対応を誤れば、EUの紐帯が一挙に損なわれて統一市場も解体しかねない状況にあるのですから、ヨーロッパの首脳たちにとっては、まるで腫れ物に触るかのごとくに当面の間だけでも現状の秩序が持ちこたえることを願うばかりで、積極的な打開策を打ち出すどころではありません。
このようにアメリカにとってもヨーロッパ主要国にとっても、今回のサミットはせいぜい現状を取り繕って維持させて、何か手が見つかるまで時間を稼ぐといった程度の意味合いしか無かったのですが、日本だけは違いました。安倍首相にとっては、国内向けに随分と意味づけのできるサミットであったようで、狙いははっきりとしていました。まず7月の国政選挙に向けての対策とすることです。経済面においても政治面や環境面においても、現在世界は深刻な事態にあることには間違いありません。そこで安部首相が、G7首脳会議を主導するパフォーマンスを見せれば、世界に対してリーダーシップを発揮したかのように国民には映ります。また広島を訪問するオバマ首相と、戦争犠牲者への追悼と核の無い世界を求めて握手を交わすことも、安倍内閣支持率上昇のポイントになることでしょう。さらには安倍首相がどうしても各国首脳の了解を取り付けておきたかったことは、選挙に向けての景気対策としての、日本における財政出動と消費税増税の見送りです。しかし見落としてはいけないことは、安倍首相にとってはもう1つの重要な国内に向けてのメッセージがあったことです。それは皇祖神の祀られる“伊勢”の地でサミットが開催され、各国首脳が伊勢神宮を訪れるというパフォーマンスを日本の国民に見せるということです。天皇制を求心力とした国家主導の政治形態を目指す安倍首相にとっては、こうしたパフォーマンスを行えることからも、今回のサミットは重要な意味を持ったものだったと思われます。
総じて言えば伊勢志摩サミットの本質は、各国首脳間の貸し借りが様々ある中で、今回は安倍首相の国内向けアピールに先進国首脳が協力したというところでしょうか。あるいは協力や同意を得られずとも、安倍首相にとしては、国内向けのアピールが、国民にだけはまことしやかに伝わればそれで目的達成というところなのかもしれません。いずれにせよ今回の伊勢志摩サミットについては、よく眺めてみると、このように私たちの生活の本質にとっては、さして関わりも重要な影響を及ぼすものでも無いことが分かってきます。しかしそれもまた、私たちが自分の意識が捉えているものを丹念に探ってみた結果として気づき、見えてきたところのものです。この気づきと理解の力を、誰もが自分のものとして身につけて、さらに高めていく方法について検討を深めていきたいと思います。次回のパンセの集いは5月30日の月曜日、時間は18時からです。なお次回は、幡ヶ谷ホームシアターサークルの第1回上映会を行うこととし、名画を通じて私たちのいのち力を高めていくための取り組みともしたいと思います。場所につきましては、初台・幡ヶ谷の地域で行います。
さてG7の首脳たちによる、伊勢志摩サミットにおける茶番劇はさておくとして、今世界の主要国が直面している本当の深刻な問題は、格差の拡大が臨界点に達しつつあるということでしょう。庶民層の不満は排外主義や自国優先のポピュリズム政党の躍進といううねりで現れ、グローバル資本主義によって富裕層が自分たちに利益を集中させてきた構図に歯止めをかけ、軋みを生じさせ始めています。こうした状況の中で私たちが指針とするのは、あくまでも自分の生活の利益と幸せに基点を置くことでしょう。そのために今私たちには、世界的に見て2つの選択肢が示されているように思います。1つは国家に権力を集中させて、その国家に主権を委ねて強力に私たちの生活を向上させていく方法です。もう1つは本来の国民主権を徹底させて、国民自らの手で協力して、自分たちの幸せを向上させていく方法です。現実にはこの2つの区別があいまいなままに、その時の社会の気分の高揚に流されて一緒くたになって政治は進んでいくのですが、どちらが私たちの利益と幸せをより良く実現していくことが出来るのか、本当は方法論としてのこの2つの選択肢の区別を、よく弁(わきま)えておかなければなりません。
そもそも国家が成立する第1の理由は、治安の維持と秩序の形成です。治安が保たれ、ルールが守られれば、私たちは安心して生産活動や商業活動に従事することが出来、国家の全体も私たちの生活も富ませることが出来るからです。それ故にその対価として、国民は国家に税金を納めます。これが国家の成立の最初の形態です。この目的が達成されるのであれば、統治の原理は現在のISなどのように、“恐怖”による支配であっても構わないのです。このように治安の維持と秩序の形成は、最も基本的な国家の目標であって、この目標の達成のためには、国家主権という体制はきわめて優れた方法でしょう。さて第2段階の国家の目標は、国民の生存の保障です。国民の生存保障の初期の形態は、災害対策や飢饉の対策、あるいはその予防措置としての治山治水です。この歴史も随分と古く、すでに聖書の創世記のヨセフ物語の中で、古代のエジプト王国が備蓄した穀物によって7年間もの飢饉を乗り切り、さらに周辺諸国の住民までも援助した話が出ています。日本の幕藩体制においても、藩の治世の優劣と繁栄は、災害対策にかかっていたことが見て取れます。一方、国民の誰もが最低限生きて暮らしていけるように社会的に保障するという近代的な生存権の概念は、18世紀の市民革命と共に現れ、日本国憲法の25条にも国民の権利として明文化されています。しかしおよそこの目標を完全に達成した国は、未だかつてこの地球上には存在していません。それどころか今回の熊本大震災における激甚災害指定の遅れや、罹災証明書の発行が進まない状況を見ていると、災害対策すら国家の基本目標としてきちんと位置付けられていないのではないかと、心許(こころもと)なく思えてきてしまいます。特に明治以降の日本を幕藩体制と比べると、国民のいのちと生活の保障を国家の基本目標として本当に据えてきたのかどうか、疑わしくなる思いがしてきます。ただそれはそうとしてこの第2段階の国家の目標の実現についても、国家主権は相当効率的に機能することと思われます。その反面国家主権においては、国民一人一人の生存よりも国家全体の利益を優先することが原理となるのですから、国家の存続のために国民に犠牲を強いるということも生じてくることになるでしょう。
さて第3段階の国家目標は、国民一人一人が自分を生かし、それぞれに幸せになっていくことを国家が調整し、支援していくというものです。日本国憲法の13条、幸福追求権をさらに国家の責務として定める内容です。この段階になると、もはや国家主権は通用しません。一人一人の生き方は多様で、幸せの内容も異なってくるからです。一つの価値観、一定の幸せモデルをもって統制していくことは、国家主権の得意とするところですが、千差万別の幸せ追及を満たす最適値を計算しきって提供することなど出来ようはずはありません。それは高度な人工知能をもってしても不可能なことでしょう。国民主権によって、各人が相互に調整しあうことによってでしか千差万別の幸福を満たすことは出来ず、その自律的な調整の過程で各人間の幸福に過不足の生じないようにバランスを取り、さらに全体の総和としての幸せをも増進させていくことが国家の役割として求められてくることになります。以上のように国家の原理的な目標を3段階に分けて考えてみましたが、じつはこの3つの目標は相関していて、本当に一人一人の利益と幸せの実現を保証することを目的に権力が行使されるのでなければ、生存権は蔑(ないがし)ろにされる可能性が出てきます。また権力が腐敗して、権力者が国家を自分の私腹を肥やす道具としてしか扱わなくなるような事態も生じてくることがあって、現在のアフリカの諸国のように、賄賂ばかりが横行して治安も法秩序も維持されなくなるようなことが起こってきてしまうのです。
ところで1980年代の日本のように、社会が安定的に成長している時代には、国家の役割は、政治的に圧力を持つ団体間の利益調整だけでも十分だったことでしょう。しかし社会が混迷し、将来のビジョンが描けなくなってくると、私たちはもう1度自分自身の利益と幸せに立ち返って、国家の役割についても先に検討したように、その原理的な機能にまで遡って考えてみなければなりません。そして自分の利益と幸せを保障するために、当面どの段階の役割までを求めるのが現実的なのか、またどういう方法によれば自分の求めがより確実に実現できるのかを、考えてみる必要が生じてきます。安倍首相が進める国家主権による方法によっても、私たちの生活を守り、幸福を増進させていくことは可能でしょう。特に国家の役割として、当面は生存権の保障までを重視するのであれば、国家主権は現実的で効率性の高い方法と言えるでしょう。実際に戦前の天皇制大日本帝国やナチスドイツ、あるいは社会主義ソビエトのように、具体的な政権運営のモデルも過去には存在しています。ただし国家への求心力を高めるために、どうしても他国の脅威を煽って排外主義的になったり、内部にユダヤ人のような弾圧の対象をつくる必要が生じてきます。またすでに述べたように、国家の主権を優先するために国民の利益や生存が犠牲にされるケースも生じてきます。伊勢志摩サミット開催直前に、沖縄で米軍関係者による女性の暴行殺害事件が発生しましたが、これに対して国家主権的理念で動く安倍政権の内部から、“最悪のタイミング”という声が漏れてきたのも当然です。国家主権においては、国民一人のいのちと、国家全体の利益あるいは“公益および公の秩序”と比べた場合、国家全体の利益の方が重視されることは当たり前だからです。しかし私たちは、戦前と同じ過ちを繰り返すことは出来ません。もし私たちが国家主権を選択していくのであれば、どうしても今述べたような国家主権に内在する危険性を回避する手立てを見つけて、対策を講じていかなければなりません。しかしこれはなかなか難しく、その解決のためには至難の技が求められてくるところでしょう。
一方国民主権において、ましてや国家に国民の幸せを保障するまでの役割を期待する場合には、現在のところそれを実現するためのモデルがありません。理念と形式だけの民主主義は世界中に存在しますが、本気で国民すべての幸せを求めたり、本当にそれを実現した国など存在しないからです。国民主権にもとづく、国民一人一人の幸せを実現する民主主義の政体は理想的で麗しいのですけど、それを担うだけの個々人の力量も、そのための政治・経済のシステムを運営するノウハウも、私たちは持ちあわせていません。それなのにもし理念だけ掲げてうっかり政権でも取ったものなら、前回の民主党政権の時以上に、私たちの国は大変な混乱に陥ることになってしまうでしょう。
このように現在の私たちが、安倍首相が推進するような国家主権の道を選択しようが、国民主権の道を選択しようが、どちらに行ってもその道筋の先は危ういことだらけで、自分の利益と幸せを保障するための答えは見出せてきません。それでは私たちは、もはやどうしようも無い状態にあるのでしょうか。いいえそんなことはありません。私たちの意識は、言語化できないレベルでの直観までも含めて、じつに膨大なデータを世界から読み取って、無意識の領域に蓄積しています。また私たちの脳は、未だその能力の何パーセントしか稼働させていません。答えを導き出すためのヒントとなる情報は、すでに私たちの意識の中に取り込まれていて、私たちがそれに気づけていないだけなのです。またその情報をもとに答えを導きだすための思考回路も、すでに脳の中に組み込まれていて、私たちがそれをうまく作動させることが出来ていないだけなのです。
そんな私たちの意識の中に取り込まれている大切な情報に気づき、使いこなせていない脳の思考回路を作動せる方法が、自分自身の意識を精査する内観法(瞑想と祈り)によって見出せてくるのです。内観法は特別の能力でもなんでもなく、誰にでも出来るごく当たり前の技法なのです。もちろん、私たちが自転車を乗りこなすために少々の練習が必要なのと同じように、普段は用いていない意識の働せ方と思考方法を行えるようになるために、ちょっとしたトレーニングは必要となりますけれども。今回は伊勢志摩サミットもあって、政治と国家のあり方という、およそ私たちの日常生活とは縁遠い話題に終始してしまいました。しかし一見難しそうに感じられるそうしたテーマについても、実は私たちは、その気になれば様々なことに気づくことが出来るのです。また自分の利益と幸せの実現のために、政治と国家はどうあれば良いか、さらにそんな政治と国家の実現のために、何をどこから手をつけていけば良いのかが見えるようになってくるのです。普通の人間がそう出来るようにならなければ、私たちの国の社会も経済を変えていくことは出来ません。
次回のパンセの集いは5月30日の月曜日、16時からです。次回は私たちのいのちの力を養うことを目的とした、幡ヶ谷ホームシアターサークルの上映会です。人生の疑似体験を提供する映画から学ぶことによって、私たちは気づきの力を高め、内観法において自分自身の意識を探る際に見いだせるものも、一層多くなるものと思われます。そしてその次の回の6月6日月曜日のパンセの集いでは、内観法の実際について、その具体的な技法の詳細を検討していってみたいと思います。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)