ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.89『私たちが政治を判断する視点と、舛添都知事の辞職』

Jun 18 - 2016

■2016.6.18パンセ通信No.89『私たちが政治を判断する視点と、舛添都知事の辞職』

皆 様 へ

6月の第3週は、日本においても世界においても、私たちの社会の深層でうごめく変化を映し出すイベントが、相次いで開催されます。まず6月21日には、舛添東京都知事が正式に辞職します。6月22日は第24回参議院選挙が公示され、6月23日にはイギリスでEU離脱の是非を問う国民投票が実施されます。そしてまた沖縄では、6月19日に米軍属による女性暴行殺害事件に抗議する県民大会が開かれ、沖縄戦が終結した6月23日には、今年も糸満市摩文仁の平和記念公園で沖縄全戦没者追悼式が開催されます。こうした一連の出来事をどのように捉え、その結果予想される状況に私たちはどのように対処していけば良いのでしょうか。そこで様々な出来事を捉える視点と、また私たちがマスコミ報道に引き摺られることなく、素直に自分の意識に立ち戻った時に見えてくる政治状況について検討していってみたいと思います。次回のパンセの集いは6月20日の月曜日、時間は18時からです。場所は、初台・幡ヶ谷の地域で行います。

さて現時点で政治や選挙の問題を思うと、誰でも気分の面では、「舛添東京都知事は辞任して当然」「安倍政治は許せない」「いや、安倍首相は良くやっている。他に人材はいない」などなどの好悪の感情がすぐに浮かんできます。ではなぜ良いのか悪いのか。「舛添都知事は政治資金を公私混同したから」「安倍首相は憲法を改正して戦争に導こうとしているから」「いや安倍首相は経済を回復させ、日本をデフレから脱却させようとしているから」等々とこれまた賛否の理由が浮かんできます。しかし今度はちょっと考えてみる時間が必要で、しかも理由づけには取って付けたようなところも残って、確信が覚束なくなってきます。さらに各党の政策の評価にまでなってくると、自民党の社会保障政策と民進党の政策の違いなど、本当のところはよく分かりません。ましてやイギリスのEU離脱問題などになると、きっと大変そうなんだろうけれど、何がどう大変なのかはさっぱり理解が出来ません。

確かに政策の問題や国際経済・政治情勢の問題などは、私たち庶民には詳しいことは分かりようはずがなく、そんなことは優秀な専門家にまかせておけば良いのでしょう。ところが最近は、そうもいかなくなってきているようです。なぜならその頼りの専門家自身も、どうして良いか分からなくなってきているからです。実際世界の英知がそれぞれの国や国際情勢の舵取りをしているのですが、中東社会は流動化し、その余波もあってヨーロッパ社会も安定を失い始めています。世界のリーダーたるアメリカは、大統領予備選でのトランプ現象に象徴されるように、いったいどこへ向かい始めているのか分かりません。中国も経済の失速が明らかになりつつあります。そして私たちの日本も、安倍首相がこれまでの政権運営の良いとこ探しを始めて、懸命にアベノミクスの成果を訴えるのですが、実際は雇用も厳しく、実質賃金もダウンして、安倍首相が成果を訴えれば訴えるほど空しく感じられる状況が生まれています。もし専門家が良く分かっているなら、世界も日本の状況も悪くはならずに良くなってきているはずで、私たちの不安な気分も、少しは希望の持てるものへと変わってきていることでしょう。

しかしこれも仕方の無いことで、専門家というのはあくまでも今までの仕組みを前提としたプロで、仕組みそのものが変化してくると、却って旧来のものの考え方に囚われて、私たち以上に物事が見えなくなってしまうものなのです。幕藩体制の朱子学に秀でた武士階級の官僚が、ベンチャ-キャピタルでの投資事業で十分なキャピタルゲインを得るには、その知識とノウハウはどうにも役立たないのです。それでは専門家も当てにできなくなったとしたなら、私たちはいったいどうすれば良いのでしょうか。最近ポピュリズムという言葉をよく耳にします。大衆迎合主義とも訳され、アメリカのトランプ大統領候補やヨーロッパで移民排斥を唱える極右や民族主義的政党を指して用いられ、イギリスのEU離脱推進派の背景でも、ポピュリズム的な主張が威力を発揮していると言われています。ポピュリズムとは、格差が拡大する中で私たち庶民の持つエリート層に対する反感を利用する一方で、私たちの目先のニーズを満たす耳当たりの良い政策を並べ立て、私たちを扇動する政治手法のことを言います。ポピュリズムが一概に悪いというわけではありませんが、果たしてその政策が、私たちや後の世代にとって、本当に良い結果をもたらすものなのかどうかについては、かなり慎重に考えてみる必要があります。

実はこのポピュリズへの対し方の中に、私たちが自分の頭ではどうにも判断のつかない政治や経済や国際情勢について、どう対処していけば良いかについての典型的なヒントが隠されているのです。つまり、“本当に自分にとって利益になることは何なのか”という原点に立ち返って考えてみることです。このことは、本来シンプルなことなのですが、現代においてはなかなかそうもいきません。小さい頃から詰め込み教育で答えを暗記させられ、自分の確かな実感で“正しさ”を納得する感性を損なわれてきた私たちは、容易には“自分の本当”が直観されてきません。ましてや高度に発達したマスコミを通じて、片時も欠かさず商品情報が流され、一見多様そうに見えて実は一定の固定観念で画一化された大量の情報に曝され続けると、私たちが目先の欲望や本来自分のものではない価値観に振り回されてしまうのも当然です。こうして私たちは、容易に自分を見失い、自分の本当の利益が何であるかが分からなくなってしまいます。それは経済的に画一化された欲望(自分の好みでなく、皆が儲かりそう、あるいは流行と思うものを求める)のみを無限増殖させていく資本主義という仕組みのもとにある現代社会にあっては、必然的に生じてきてしまう現象なのです。

それでは外部からの欲望刺激に引き摺られることなく、本当に自分にとって利益になることを見出すためにはどうすれば良いのでしょうか。恐らくポピュリズに惑わされないためには、よく考えて始めて自分の利益にはならないことが分かるようでは手遅れで、むしろ直観的にすぐに、“何かおかしいな、それで良いのかな”という気づきの感性が働くようでないといけないでしょう。しかし本来私たちには、何が自分の利益なのかを感じる感性は、自然に備わっているはずです。そこで私たちが対処すべきこととして3つのことが浮かんできます。1つは私たちが、自分自身を自然な心身の状態に戻すことで囚われた価値観を拭い去り、意識が自由に働いて自分の利益を感じられるようにしていくことです。しかしこれまでの生い立ちで“自分を見失い”、現在も様々な欲望や価値観の洪水に曝される状況にあっては、個人の努力だけで自分を取り戻そうとするのは困難でしょう。そこで2つ目に必要になってくることは、“自分の利益”という原点に戻ってものごとを捉え直した時に、どんな可能性が見えてくるかのモデルを具体的に描いて見せることです。「そんな可能性があるのか」と気づいた時に私たちは、“自分の利益”に立ち返ることの意義を認め、自らそのモデルに沿って“自分の利益”を求め始めることでしょう。今度の参議院選挙は、私たちが“自分の利益”から政治を捉え直して、可能性を見出すためには良い機会かもしれません。しかし私たちが自然な自分に戻って、“自分の利益”から物事を考え始めたとしても、それだけではまだ十分ではありません。なぜなら、もともとは一人一人の利益を満たすことが合わさって出来たはずの社会と経済が、現在のように生きづらく、全体としても危機に瀕する状況に至っているのですから、そこにまだ問題があるはずです。そこで3つ目には、そうならなくするための新しい市場や政治のルールを定め、それを守った方がメリットのあるようにしていかなければ、私たちは安心して自分の利益を自由に求めることは出来ません。

さてそこでまず、私たち一人一人が個人のレベルで自然な自分を取り戻し、自分自身の本来の利益を直観できる感性を養うための方法から考えていってみたいと思います。このために効果のある方法として、伝統的には3つのプロセスが行われてきました。1つは外部からの情報を遮断して、何も考えずにぼ~っとゆったりとした時間をもつことです。次いで出来るだけ心身の状態をリラックスさせて自然な状態に戻すために、呼吸法、自己整体法、気功法等を用いることです。そして3つ目に瞑想または内観によって自分自身の意識を観察し、自分自身に気づいて自然な自分の求めが沸き上がってくるようにしていくことです。この3つのプロセスをあわせて、瞑想法または内観法とも呼ばれています。たかがそんなことで効果があるの?と思われるでしょうが、アメリカではすでに3,500万人ぐらいの人たちが瞑想法を毎日の生活の中に取り入れて愛好し、またどんな小さな町にもメディテーションセンタ-(あるいは心理療法施設内のマインドフルネスセンター)があって、その数は中華料理店を上回ったとも言われています。これほど普及した理由は、瞑想の心理学的な効果に気づいたアメリカの心理学者たちが、宗教と瞑想を切り分けて純粋な心理療法として“マインドフルネス瞑想法”を確立させたからでしょう。瞑想法のうち自分自身の気分や身体の状態に気づいて(内観法の部分)、ストレスに対処してリフレッシュしたり、インスピレーションを養う“心のエクササイズ”として急速に普及したのです。このように本来深い価値観に根差す手法からその価値観を除いて、適応のための手段としてプラグマチックに用いてしまうのがアメリカ流ですが、それでもマインドフルネス瞑想を続けている効果は大きく、現在多くの庶民が格差に気づいて異議申し立てを行い始めた背景には、こうした自分への気づきが広範な人々の間で起こってきたからかもしれません。瞑想法の概略については、すでに

パンセ通信No.32『姿勢・呼吸・内観によって変わる心身』
http://www.pensee-du-koyasan.com/posts/64
パンセ通信No.33『瞑想が拓く、生死を越えたいのちのつながり』
http://www.pensee-du-koyasan.com/posts/65

 において述べておりますが、今度の選挙が終わってからでももう一度、体系的に整理してみたいと思います。また幡ヶ谷においても毎週木曜日に『内観法サロン』を始めましたので、今後は実践面においても継続的に瞑想法を行って、私たちの気づきの力を高めていければと思っています。

それでは次に、こうして私たちが素直な自分自身の求めに立ち戻り、“自分自身の利益”が見えて来たとしたなら、その視点から現在の政治状況や今度の参議院選挙戦を眺めてみた時に、どのような姿や可能性が浮かんでくるのでしょうか。まずは舛添東京都知事の辞任問題から考えていってみたいと思います。非常に素朴な目でこの問題を振り返ってみた時に、3点ほど疑問な点が浮かんできます。まず第1に、他にもいろいろと疑惑がある中で、なぜ舛添問題だけがマスコミに積極的に取り上げられたかということです。甘利前経済再生担当相の斡旋利得疑惑や東京オリンピックの招致疑惑がある中で、しかも官邸が報道の中立性を盾にとって圧力を加えているために(例えば高市総務大臣の放送局に対する電波停止発言)、マスコミ各社が政権に対する批判的報道を自粛していると噂されている状況において、舛添都知事の疑惑だけが大きく取り上げられたのは何故でしょうか。素直に考えて思い浮かぶことは、舛添都知事が現政権からは距離があって、政権にとってもマスコミから叩いてもらって結構という人物であったからということでしょう。実際自民党議員においては、小渕裕子議員の政治資金規正法疑惑や、宮沢洋一前経産相の政治活動費のSMバー支出疑惑、そして島尻安伊子沖縄・北方担当大臣の公選法違反疑惑など、他にも枚挙に暇がない疑惑があるのですが、いずれもうやむやになっています。そう思って調べてみると、舛添氏は2009年の衆院選で自民党が大敗した直後に離党し、新党改革を結成したということで、自民党を除名された経緯があります。しかしそんなことよりも、舛添都知事が行ったこととして忘れてはならないのは、東京オリンピックのための新設会場建設計画を見直し、経費を削減したことでしょう。もともと東京オリンピックの招致の裏では、代々木や湾岸再開発の利権がからんでいると噂される中で、経費を削減したのですから、利権を画策する人たちからは舛添氏は面白く思われなくても仕方が無いでしょう。しかし私たち“庶民の利益”の立場から見れば、このことは舛添都知事の最大の功績と言えます。また舛添都知事は、新国立競技場建設に際しての東京都の費用負担にも抵抗した経緯があります。国立競技場の建設に都民の税金を用いることは出来ないというのは、全うな理屈なのですが、国の財政が赤字の中で、潤沢な東京都の資金を狙ってオリンピックへの投資を目論む人たちから見れば、このことも歯がゆいことと映ったことでしょう。こうして舛添都知事という人物には、もしマスコミがバッシングしたいのなら、どうぞ構いませんよと許容される余地があったと思われます。

このように、舛添都知事に対するマスコミのバッシングが始まった経緯について詮索することは面白いのですが、大切なことはここからです。舛添都知事の辞職問題に対する2番目の疑問は、なぜこれほどまでに加熱したマスコミ報道がなされたかということです。東京都知事の問題なのに、他の地域でも大きな関心を呼んで日本中の耳目を集めたようです。その理由は端的に言って、舛添都知事が私たち庶民の大きな怒りを買ったためにその動向に注目が集まり、高い視聴率が取れたからでしょう。ではなぜ舛添都知事は、これほどまでに庶民の怒りを買ったのでしょうか。そこにも3つほどの理由が見えてきます。まず第1に背景として、やはり日本においても生じている格差拡大の問題があるでしょう。その格差の下の方にいる私などは、母親の介護を兼ねて大阪の実家に戻るために、交通費を少しでも節約しようと深夜バスを利用したり、出来るだけ安い方法で新幹線のチケットを手に入れても、なお指定席代を支払うのに躊躇するぐらいの状況です。そういう人間にとって、飛行機のビジネスクラスやファーストクラスに乗る人たちのことは、かけ離れていて眼中にありません。しかし公金を私用して、特権のようにぬくぬくとグリーン車に乗る人物に対しては、我慢がならない憤りが込み上げてきます。舛添都知事は、これと同じように庶民に非常に分かりやすい“せこい”レベルで、特権を享受していたのです。湯河原の別荘への公用車の利用も、度重なる海外出張でのファーストクラスやスウィートルームの利用も、そして家族での宿泊費を政治資金に付け替えることも、毎日の節約の中でせめて自分もそんな贅沢がしてみたいと思っている庶民にとっては、やっかみの感情が引き起こされる対象となったのです。これが舛添都知事に対する怒りの2番目の理由ですが、3番目の理由は、舛添都知事の立ち位置の問題です。舛添都知事はその疑惑に対する説明の中で、「都知事は24時間公務なのだから、湯河原の別荘に公用車で行くのは当然」「世界の大都市東京の知事が宿泊するのに、安っぽいビジネスホテルなんかを利用できますか?」といった趣旨の発言をされています。こうした主張からは、彼が自分は普通の庶民ではなく、特別の人間なのだという思いを持っていることが窺い知れます。つまり彼は、自分は特別の地位にあって、その地位から得られる当然の権利として、庶民からは公私混同と見える利益を享受していたのだと説明したのです。この立ち位置からの発言が、私たちの感情を逆なでし、怒りに油を注ぎました。これは非常に興味深い現象で、舛添要一氏のこれまでのキャリアや政治信条を見れば、彼が自分をこうした特別の地位に置くことに価値を見出す人物であることは容易に分かります。しかし今回ばかりは、この舛添氏の立ち位置に対して、私たち庶民の怒りが炸裂したのです。マスコミが先導したために、私たちが心の深い所で押し殺していた憤りを、舛添氏に対しては発散することが許容されたから起こった現象とも言うことが出来るでしょう。そして気づくことは、日本でもアメリカでのトランプ現象やサンダース現象、あるいはヨーロッパでのポピュリズム現象と同様に、庶民の心の中ではエスタブリュッシュメント層に対する怒りが渦巻いていたということで、舛添問題はその一端を垣間見せてくれたのです。

さて舛添都知事の辞職問題に対する3番目の疑問は、何故舛添氏は辞職に追い込まれたかということです。そのことについては、彼がいったいどこを見て、そして誰を見て都政を行ってきたかということを考ええれば分かってきます。まず彼がどこを見て都政を行ってきたかということですが、それは彼が6月15日の都議会の本会議で行った、都知事退任の挨拶を見ればよく分かります。その最初の部分で舛添都知事はこう述べました。「平成26年2月に都知事に就任して以来、東京を世界一の都市とするために全力を尽くしてきました。」しかし彼は、猪瀬前都知事が現金受領問題で辞任した後の都知事選では、こう訴えていたのです。「私の政治の原点は母親の介護であります。揺り籠から墓場まで、社会保障を前進させ、東京を福祉で世界一にします。」舛添氏の主張は、「東京を“福祉”で世界一にする」から「東京を世界一にする」に変わってしまっていたのです。福祉で世界一にするというのは、庶民の利益を増大させることを約束した発言です。しかし実際には、彼が退任の挨拶で成果として述べた保育施設の充実も地域包括ケアシステムの構築も、たいした実績は上がっていません。むしろ舛添都知事が最も力を注いだのは、彼が最後まで辞任拒んだ理由からも分かるように、東京オリンピックに向けての準備作業でしょう。それが彼の言う「東京を世界一」にするということの内容です。そこで利益を得るのは、オリンピック関連の事業を担う事業者であり、栄光を得るのはこの大仕事を担う舛添氏自身です。つまり彼の都政運営の目線は、庶民の利益を守り増やすことから、事業者の利益と自分の栄光へと移ってしまっていたのです。しかし先ほども申し上げたとおり、彼はもともと庶民の利益を担うことを政治信条とする人物ではなく、選挙公約はもともと単なる見せかけでしかないのですから、舛添氏がこうした都政運営に走るのは自明のことだったと言えるでしょう。そしてほとんどの政治家が、実際は舛添氏の目線と大して相違がないことは、私たちがよく存じているところです。ところが、今回だけは違ったのです。マスコミの自主規制が外れて、自由に私たちが怒りを表明できるようになった時、私たちの利益に反するこの舛添氏の立ち位置を、私たちは許さなかったのです。

しかし舛添都知事を辞任に追い込んだ決定的な理由は、むしろ彼が誰の方を向いて都政を行っていたかということの方にあります。言い変えれば、自分の権力の源泉はどこにあると彼が思っていたかということです。舛添氏は2年前の都知事選においては、庶民層から幅広く210万票を集めて当選しました。それ故に当初は、庶民層の意も汲んで、オリンピックの会場建設計画を見直し、経費削減に努力しました。しかしやがて、新国立競技場建設に際しての東京都の費用負担問題あたりから、政権側と妥協を図っていきます。つまり彼は、都知事の地位を保全するためには、庶民受けする政策を行うことでなく、政府や行政官庁(役人)、オリンピック会場建設を担う事業者の側の意を汲むことだと判断するようになっていったのです。このことは彼の退任の挨拶にあたっても、庶民から見て舛添都知事の最大の功績であるオリンピック会場建設費の削減については、一切触れられなかったことからも見えてきます。以降舛添都知事の都政運営は、政府、都議会与党(自民党・公明党)、都庁官僚、事業者の方を向いてなされ、当然自分の権力の基盤も、こうした人々のもとにあると考えていたのです。舛添都知事が資金疑惑で追い込まれても、最後まで強気でいられたのは、自分の都知事の地位を保障する力は庶民の支持ではなく、都議会与党等にあると思っていたからでしょう。実際政治ジャーナリストの鈴木哲夫さんがサンデー毎日等に掲載された記事を見ると、都議会与党とは、少なくとも今秋頃までは、舛添都知事の辞任を求めないということで話がついていたようです。参院選、リオデジャネイロ五輪を控えた時点での都知事辞任は、その後の都知事選実施の日程で無理が生じるし、舛添氏に代わる与党都知事候補の擁立が困難であったからと言われています。

しかし舛添氏は見誤りました。都知事の権力の源泉は、都議会与党や官僚や事業者にはなく、庶民(都民)にあったのです。これは憲法や法制度上あたり前のことなのですが、それでも自分たちの利益に反する舛添都知事を、庶民の怒りが辞任に追い込んだということは、1つの大きな動きとして受け止めなければならないことでしょう。昨年あたりまでは、庶民階層から富裕層へと富が移転して格差が一層拡大する仕組みは、巧妙な仕組みによって世界的にうまく覆い隠されてきました。アメリカでは、誰にも自由に成功の機会が与えられるアメリカドリ-ムとして、ヨーロッパでは、EUによる1つのヨーロッパの理想として、そして日本では、アベノミクスや東京オリンピック準備という幻想によって、庶民の不利益の現実はうまくカモフラージュされてきたのです。ところが今年に入って、アメリカでは大統領予備選を機に、ヨーロッパでは難民流入問題に端を発するEU統制への反発を機に、庶民が自分たちの利益を主張し始めるようになったのです。そしてその動きが日本でも、マスコミ統制がただ1つ緩んだ地点、舛添問題を機に噴出してきたのです。

この私たち庶民が無意識のうちにも自分たちの利益を主張する動きは、じつは今度の参議院選挙にも大きな影響を及ぼし始めています。残念ながら現在日本には、この庶民の利益を純粋に代弁する政党が1つも無いのですが、しかしこの庶民が自分たちの利益に目覚める動きは、今日本の政治構造に、着実な地殻変動をもたらしつつあります。その動きの実態を見ることで、私たちが自分の利益を求める可能性を明らかにすると共に、私たちが自分たちの利益を拡大して、日本と世界の全体もあわせて良くなっていくための条件を考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは6月20日の月曜日、18時からです。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)

なお、6月27日(月)のパンセの集いでは、月末ですので幡ヶ谷ホームシアターサークルとしての活動を行います。次回の鑑賞課題映画は、フェデリコ・フェリーニ監督の初期の名作『道』を予定しております。開始は同じく18時からです。ご予定頂ければ幸いです。