ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.91『フェリーニの映画「道」-人間存在の根源に横たわる愚かさと愛おしさ』

Jul 02 - 2016

■2016.7.2パンセ通信No.91『フェリーニの映画「道」-人間存在の根源に横たわる愚かさと愛おしさ』

皆 様 へ

(1)はじめに
幡ヶ谷ホームシアターサークルにおきましては、生きる力を養うための取り組みとして課題映画を設定し、その鑑賞と評価を続けております。第2回の課題映画であるイタリア映画、フェデリコ・フェリーニ監督の初期の名作である『道』を観た人たちから、様々な感想が寄せられました。「あまりにも重い映画」、「希望の無い映画」、「この映画を観て泣かない人はいない」等々否定的な感想も多かったのですが、それだけ心を揺さぶるものがあったのでしょう。それでは、その心揺さぶるものとはいったい何だったのでしょうか。またフェデリコ・フェリーニ監督は、この映画をつくるに際して、『神の愛は、信じぬ者にも及ぶ』という思いでつくったと述べています。この監督の言葉の意味とあわせて、この映画から読み取れるものを拾い出していってみたいと思います。次回のパンセの集いは7月4日の月曜日、時間は18時からです。場所は、初台・幡ヶ谷の地域で行います。

(2)ジェルソミーナとザンパーノの「道」の始まり
映画は海辺のシーンから始まります。この映画はいのちの故郷である海から始まり、中ほどに現れる海岸の場面では、主人公のジェルソミーナが自分の役割に生きることを決意する重要な転換点が暗示されます。そして最後に再び母なる海に戻って、夜の砂浜で、もう一人の主人公であるザンパーノが、悔悟と悲嘆に暮れてのたうち回るシーンで終わっていきます。この映画では、海に象徴的で重要な役割が与えられています。この映画の冒頭、海辺の風景に溶け込んでいるかのようなジェルソミーナの姿が映し出されます。薪にするのか売って生活の足しにするのか、浜辺で拾い集めた棒切れを背負って、彼女は海を見つめています。大きく見開いた曇りの無いまなざしで、まるで自然のいのちの恵みと一体となっているかのようです。このジェルソミーナの無垢な「まなざし」も、この映画の随所でジェルソミーナの求めるものを示していきます。そのジェルソミーナの母なる海との一体性が、妹たちの呼び声によって破られていきます。彼女の姉妹であるローザの死と、ザンパーノの来訪を告げ知らせたからです。

ザンパーノは旅芸人の男で、ローザはこの男に何年か前に“売られて”いったのです。そのローザが死んだために、ザンパーノは替わりの働き手を求めて、再びこの海辺の寒村の貧しい家族の元にやってきたのです。大家族で食うに困る母親は、口減らしも兼ねて、1万リラ(今の日本円にして12~3万円といったところでしょうか)で長女のジェルソミーナを売り渡します。知恵遅れで器量も良くなく、満足に働いたこともないジェルソミーナを、母親は“従順”だと言って売り込みます。ジェルソミーナを自分のための単なる“道具”としてしか見ていないザンパーノは、「大丈夫だ、犬にだって芸を教えられる。」とうそぶいて、彼女を連れていきます。こうしてジェルソミーナは、荷台に幌をつけたオート三輪に乗せられて、海辺の故郷の“聖地”を後にしていきます。

こうしてわずかな家財道具を積み込んだだけの、みすぼらしいオート三輪によるザンパーノとジェルソミーナの、町から町へと「道」往く大道芸の旅が始まります。ジェルソミーナを金で買った“道具”としてしか見ていないザンパーノは、植物の茎でつくった鞭を振るいながら、ジェルソミーナに厳しく芸を仕込みます。そして夜は自分の情欲を満たす対象として扱っていきます。一方知恵遅れのジェルソミーナは、ザンパーノ仕打ちに涙を流しながらも、衣装の帽子に小躍りして喜んだり、小道具のトランペットに興味を示したり、草花を愛でてトマトの種を植えたりと、モノや自然との無垢な交流を続け、子供たちも彼女のそばに寄り集まってきます。そして焚き火の火と音楽にも魅せられます。火と音楽も、海と共にこの映画では象徴的な役割を演じ、いのちの働きを暗示していきます。

(3)聖と邪悪、そして狂人、道化、祭りの役割
フェデリコ・フェリーニという監督は、伝統的な演劇的構成を巧みに利用しながら、一人の人間、一組の男女に目を留めて、人間存在の本質をあぶり出していきます。登場人物の名前や役割にも、象徴的な意味が暗示されます。ザンパーノというのは、イタリア語で悪とか悪漢などの意味を含んでいます。ジェルソミーナはジャスミンの花の名前で、純粋さを表します。またフェリーニの映画の中では、狂人や道化が登場し、祭りやサーカスが重要な道具立てとなります。『人生は祭りだ、一緒に楽しもう』は、有名なフェリーニの言葉です。それでは狂人とは何でしょうか。ここでもジェルソミーナは知恵遅れの、普通の“正常”な人間とは異なる存在として登場します。“正常”な人間とは、この世の良識に沿って生きる人々のことです。しかしこの世の良識など、抜け道の多い政治資金規正法や、本来人のための企業なのに、企業のために滅私奉公することが当たり前とされる社会など、誰かに都合の良い価値観でこしらえられたものにすぎません。しかし狂人は、常人が囚われてしまう常識など軽々と乗り越えて、無垢な動物と同じようにいのちの本質に目を向けていくことが出来ます。ジェルソミーナも、その一心に見開いたまなざしで、様々なものの中に宿るいのちの慈しみを見てとり、それに呼応して賛美していきます。

それでは道化とは何でしょうか。道化師とは、滑稽な存在です。おどけ、からかわれ、笑いの対象となります。しかしまた自ら笑われながら、時に人を皮肉り、からかいます。なぜそんなことが出来るのでしょうか。人間の本質が見えてしまうからです。そして他人も自分も、その偽善者ぶっている面の皮を剥いでみたくなってしまうのです。そんな衝動を抑えられなくなってしまうのも、人間にはつきもののことかもしれません。そのために騒動を引き起こし、また自虐的な存在ともなってしまうのです。“本当”を知っているのに、すべてを滑稽の渦の中に巻き込んで無茶苦茶にしてしまう。そんなどうしようもない自分のありように気づいて、ふと我に返って悲しみに襲われる。このように道化とは、笑いの存在であると共に、ピエロが流す涙の存在でもあるのです。

そしてもう1つ、祭りやサーカスとはいったい何でしょうか。祭りやサーカスは非日常の祝祭空間、ハレの舞台です。そこでは生命のエネルギーがほとばしり出、その充溢したいのちの力によって、私たちは日常において惰性化してしまい、息詰まる自分を再生することが出来ます。古来より“ハレ”に対して、私たちの普段の生活は“ケ”と呼ばれてきました。私たちはその普段の生活において、世間の常識や習慣、また食うための労働などのうちに無意識に自分を抑えつけて生き、やがて惰性化して生きるエネルギーが枯渇していきます。これが“ケガレ(ケ枯れ、穢れ)の状況です。だから私たち人間は、どうしてもある時に日常を打ち捨てて、思い切り解き放たれていのちを充実させたり、穢れを払って神聖な心持ちにならざるを得なくなるのです。私たちがレジャーやバカンスに出かけて、リフレッシュしたいと思うのには、このように道理があるのです。道化がもたらす混沌の状況も、ある意味ではこのハレの空間と似ています。その混沌の中で人は仮面を剥され、無意識の奥底にある自分自身に気づかされ、その深層の自分を知ってわずかな部分であっても変化せざるを得なくなっていくのです。そこでフェリーニのもう1つの有名な言葉が思い起こされます。『終わりというものはない。始まりというものもない。人生には無限の情熱があるだけだ。』フェリーニにとって狂人や道化やサーカスは、永遠に変わらぬいのちの情熱のエネルギーが、そこからほとばしり出る裂け目のようなものであって、私たちはその“いのちの力”に触れることによって、“ケガレ”が再生されていくのです。

(4)獣性と聖性、人間存在の深層
こうしてフェリーニ監督は、まずこの映画においてアンソニー・クインの演じるザンパーノを人間の獣性の象徴として置き、また監督の夫人でもあるジュリエッタ・マシーナが演じるジェルソミーナを、無垢な魂と聖性の象徴として配して、人間存在の深層に切り込んでいきます。ザンパーノは本能の赴くままに生きる粗暴で身勝手な男で、ジュルソミーナを金で買った道具のごとく粗雑に扱います。また少し金ができれば飲んだくれ、酒場で出会った他の女と一夜を共にします。その間ジェルソミーナは、ねぐらであるオート三輪から叩き出されて置き去りにされ、路上に野宿し、憐れんだまちの住人から食べ物を施されるほどの惨めさです。それは虐待とも言って良い状況でしょう。こうしたことから、ジェルソミーナの前任であり姉妹でもあったローザの死の原因も、透けて見えてくるような気がします。しかしザンパーノがこうした人間性を欠いた存在となってしまったのも、当時のイタリアの状況を考えてみれば、仕方の無いところもあるのかもしれません。ムッソリーニのファシズムが支配する社会から、第二次世界大戦においては戦場となり、戦後は敗戦国である上にマフィアが横暴を振るう状況の中で、人々は貧窮と困難のどん底にあえいでいました。しかもザンパーノは孤独で、身寄りの一人もいないようです。幼い時に両親と死別したのか捨てられたのか、その混乱の中を一人で生き抜いてこなければならなかったのです。ザンパーノがこうした野獣のような人間になってしまったのも、致し方ない面があったのかもしれません。

ところで、この二人の出会いは全くの偶然だったのでしょうか。それとも、実は心の深いところで何か求めあうものがあったからなのでしょうか。邪悪な存在としてのザンパーノと純真で聖なる存在としてのジェルソミーナ。一見相対立する二人であり、ザンパーノの獣性に虐げられるジェルソミーナという構図が浮かんでくるのですが、実は邪悪なものと聖なるものは一対で、お互いがその存在を必要とするものだとしたらどうでしょうか。この人間存在の根底にある不可思議に沿って、この物語は進行していきます。ザンパーノの芸というのは、胸の筋肉の力で鎖を引きちぎるというただそれだけのもので、たった一つのその芸だけで、大道芸人として一生を過ごしていきます。哀れといえば哀れなものです。ジェルソミーナはザンパーノに無慈悲に扱われながらも、やがて芸を覚えていき、顔に絵の具を塗って“道化役”を演じていき、ザンパーノ芸を引き立てます。次第に二人の息は合っていきます。金が稼げて立ち寄った居酒屋では、ザンパーノはジェルソミーナのことを、例えその場を繕うためとはいえ“妻”と紹介します(その夜にザンパーノは酒場の女をつれ込み、ジェルソミーナは路上に放り出されるのですが)。またなぜかジェルソミーナに、小道具であるトランペットだけは触れさせません。ひょっとすると虐待のうちに不幸な死に方をさせた、ローザが使っていたものだったのかもしれません。そこにザンパーノの、一抹の悔悟の念も感じられます。こうして二人の旅と、二人の関係が進んでいきます。

(5)ジェルソミーナの苦悩とアルレッキーノとの出会い
転機が訪れるのは、結婚式の披露宴の余興として二人が大道芸を演じた時です。結婚式ですから“ハレ”の祭りの舞台ですね。祭りは人間を日常のしがらみから解き放ち、そこに現れ出る“永遠のいのちの力”の働きかけによって、深層の自分の求めに気づかせてくれます。純粋なジェルソミーナは、すでにザンパーノが自分にとって欠かせぬ存在であることに気づいて、それを受け入れています。しかしザンパーノは、ここでも欲望のままにジュルソミーナを置き去りにして、今度は未亡人の料理女と床を共にします。恐らくザンパーノにとっても、ジェルソミーナはすでに欠かせぬものとなっているのでしょうけど、屈折した彼にはその事実が見えないし、微かに気づいてもそんなことに心を向けようとはしません。ジェルソミーナは耐えられなくなります。ザンパーノの仕打ちも、過酷な芸人の仕事も、今のジェルソミーナには辛いことではありません。ただ自分が心から必要としている人が、自分に対しては必要としているそぶりも見せてくれないことは、人間にとって根源的に悲しく耐えがたいことです。こうしてジェルソミーナは、たまらなくなってザンパーノの元を飛び出し、歩いて故郷に戻っていこうとします。食うに困っても、もう1度あの無垢で聖なるままの自分でいられた故郷へと向かおうとしたのです。この場面で、ジェルソミーナがあの有名なこの映画の主題曲(ジェルミーナのテーマ)を口ずさみます。どこかで聞き覚えたこの哀愁を帯びたメロディーが、彼女を捉えて離しません。音楽もまた“永遠のいのち真実”を私たちに伝えます。やがてこのメロディーが、彼女の存在そのものと一体化していくことになるのです。

ザンパーノのもとを飛び出したジェルソミーナですが、もちろん家に帰れようはずもなく、行く当てなく道端に座り込みます。その時、近くのまちで行われるキリスト教の祭礼を告げる楽隊が、音楽を奏でながらジェルソミーナの近くを通り過ぎていきます。またしても“祭り”です。そしてこの楽隊の行進が、すでに非日常の祝祭空間を暗示しています。元来純真なジェルソミーナの心は、祝祭空間に顕れ出でる“根源のいのちの力”に感応して、惹かれるようにその楽隊の後を追っていきます。こうしてたどり着いたまちでジェルソミーナが目にしたのは、壮麗な祭礼のパレードです。夜の闇の中を明々と照らし出されて進んでいく巨大な十字架や、聖マリア像は圧巻です。そして真ん丸な目をして、主イエス・キリストの救いを指し示す様々な山車を見つめるジェルソミーナのまなざしが印象的です。“聖なる存在”である彼女は、本来の自分の居場所に戻ったかのごとく、自然にひざまずき祈ります。そしてこの祭礼の余興として催されたのが綱渡りの芸でした。高層の建物と建物との間に張り渡された一本の綱の上で、いのち知らずの芸が演じられます。その綱渡り芸人の背中には、羽が衣装として飾られており、ジェルソミーナの目には、それが“天使の羽”として映っているかのようでした。ここでもジェルソミーナの“天使”を見つめるまなざしが印象的です。そして演技を終えた芸人が自動車で去ろうとした時に、このジェルソミーナ好奇と無垢の入り交じった一心なまなざしを捉えます。この一瞬に二人は自分たちの魂に、相通じるものを感じ取ったのかもしれません。この綱渡り芸人こそ、後にジェルソミーナとザンパーノとの運命を定める重要な役割を担う人物となります。映画では名前がはっきり出てこないのですが、彼はイル・マッド(狂人)とあだ名され、またアルレッキーノ(欧米では道化役の代名詞)とも呼ばれています。この名前からも、彼の役どころは自ずと推察することが出来てくるのです。

(6)“道化”アルレッキーノによるジェルソミーナの気づき
その夜ザンパーノに見つかり、ジェルソミーナは連れ戻されます。こうして二人は再び旅を続けるのですが、その後ローマの郊外でサーカス団に加わることになります。そこに居たのが、まちの祭礼の余興で綱渡り芸を演じていたあのアルレッキーノです。どうやらザンパーノとアルレッキーノは古くからの知り合いらしく、しかも犬猿の仲のようです。それはアルレッキーノがザンパーノを必要以上にからかうからですが、“狂人”“道化”としてのアルレッキーノにしてみれば、ザンパーノの本性が見えてしまい、それに気づかぬザンパーノをからかわざるを得なくなってしまうのです。ザンパーノは力と無慈悲さで“獣性”に生きてこざるを得なかったのですが、その心の底では、実は対極の聖なるものへの強い求めがありました。その自分の中にある優しさへの求めに素直になれないザンパーノを、アルレッキーノは事あるごとにからかいます。そして怒ったザンパーノが彼を追い回して、大騒動を繰り広げるのです。そのアルレッキーノが、道化らしく滑稽なほど小さなバイオリンで奏でるのが、ジェルソミーナが口ずさみ、彼女の心を捉えて離さないあの美しいメロディーです。ジェルソミーナはこのメロディーに魅せられ、やがて彼からトランペットを学び、自分で奏でることが出来るようになっていきます。アルレッキーノは、何故このメロディーをジェルソミーナに教えたのでしょうか。恐らく彼は、直感的に現在の彼女の魂の変化を見てとったからでしょう。ザンパーノとの大道芸の旅で、虐げられ、様々な人々と出会って苦難を経験し、しかも自分が心から必要とする人に振り向いてもらえない(それは恋といっても良いでしょう)心の苦しみを味わったジェルソミーナは、もはや昔の単なる無垢で清らかな存在ではありません。あらゆる苦悩を味わい尽くした上で、なお聖性を求める哀愁を帯びた美しさと救済の存在となっているのです。それはまちのフェステイバルで見た、あのどこかおどろおどろしいまでに神々しい十字架上の主イエス・キリスト像と、聖母マリア像の苦悩のイメージと相通じるものがあります。そしてまたそのイメージは、この哀愁を帯びながらもどこまでも美しいメロディーとも重なって顕れてきます。アルレッキーノは、そのジェルソミーナの存在の変容を、このメロディーに託してジェルソミーナに伝えたのです。それが“道化”の役割だからです。そしてジェルソミーナは、その曲をトランペットで自ら奏でることによって、変容した自分を受け入れていきます。それにつけてもこの映画の音楽を担当し、この誰の心をも永遠に打つであろう美しいメロディーを作曲したニーノ・ロータは、見事という他ありません。

ジェルソミーナと異なり、いつまでも粗暴なままで自分の心の奥底の変化を受け入れないザンパーノに対しては、アルレッキーノのからかいはひつこく続き、ついに警察沙汰に至る大騒動を引き起こしてしまいます。この一件で、ザンパーノとアルレッキーノはサーカス団を追放されます。ジェルソミーナはその場を去るサーカス団の人たちから、ザンパーノを見限って一緒についてくるように誘われますが、踏ん切りがつかないままに一人その場に残ってしまいます。その夜、警察の留置場から釈放されて戻ってきたアルレッキーノとジェルソミーナとの間で、あの映画史に残る名セリフが交わされます。「私は何の役にも立たない女よ」ジェルソミーナが嘆きます。そうするとアルレッキーノが「世の中にあるものは、みんな何かの役に立っているんだ。こんな小石でも、何かの役に立っている。空の星だって役に立っている。お前だって、何かの役に立っているんだ。こんなアザミ顔のブスであっても。ザンパーノはお前に惚れているんだ。お前以外に、誰が奴のそばにいてやれる?」と話します。そしてジェルソミーナが、アルレッキーノから貰った小石を握り締めながら「私がいないと、彼はひとりぼっち」とつぶやくのです。この時初めてジェルソミーナは、ザンパーノが自分を必要としていることを確信し、また自分の生きる意味を悟るのです。ザンパーノは粗暴で身勝手な人間ですが、そんな人間であっても誰かを必要としている。そしてたった一人自分だけが、この世界で彼に役立つことが出来る。そう思えるだけで、人間は生きていくことが出来るのです。アルレッキーノはジェルソミーナを、ザンパーノが留置されている警察署の前まえ連れて行き、自分が身に着けていたネックレスをプレゼントして去っていきます。ジェルソミーナしてみれば、人から好意でプレゼントされるというのは、生まれて始めてのことであり、これが生涯でただ1度の経験となるのです。

(7)苦悩に寄り添うジェルソミーナの聖性
出所したザンパーノとジェルソミーナは、再び大道芸の旅を続け、浜辺に立ち寄ります。その海岸は、ジェルソミーナに故郷を思い起こさせます。しかしそこで海を見ながら、ジェルソミーナがザンパーノにこう語り掛けるのです。「前には家に帰りたくて仕方なかった。でも今はどうでもよくなったわ。あんたといる所が私の家だわ。」海はこの映画で、重要な転換点を暗示します。ジェルソミーナは、もはや海辺の実家に居た頃の無垢で純真な、空気のような聖性のもとにある存在ではありません。無慈悲であってもザンパーノという確かな自分の“居場所”を見出し、そこに生きることをはっきりと決意したのです。

その後二人は一夜の宿を求めて尼僧院に立ち寄ります。そこでジェルソミーナは一人の若い修道女と親しくなります。その時の二人のまなざしも印象的です。恐らくこの二人も、自分たちの中にある“相通じるもの”を感じ取ったのでしょう。ジェルソミーナは修道女の求めに応じて、大好きなあのメロディーをトランペットで奏でます。哀愁に満ちたどこまでも美しいメロディーです。初めて全曲が彼女自身によって奏でられます。ここに彼女の存在の変化が、1つの完成の域に達したことが暗示されます。人間の苦悩と悲しみを味わい尽くした上での聖なる存在。その姿が託された哀愁のメロディーは、私たちの裏切りや憎しみや苦しみのすべてを担って十字架につき、なおその上で私たちに寄り添い、私たちを聖なるいのちへと導こうとする主イエス・キリストの姿を彷彿とさせます。この故にでしょうか、ジェルソミーナのトランペットは、深く修道女の心を捉えます。そしてまたこの場面を観る私たちの心をも。

その夜二人は修道院の納屋に泊まり、ジェルソミーナがザンパーノの心を確認するかのように尋ねます。「私が死んだら悲しい?少しは私を好き?」そしてトランペットであのメロディーを奏でようとします。しかし未だにジェルソミーナを必要とする自分の心に素直になれないザンパーノは、ジェルソミーナの問いには答えず、トランペットを奏でるのを止めさせます。さらにその深夜、ザンパーノは格子戸の向こうに祭られていた銀のハートを盗もうとし、手が小さくて格子をすり抜けることの出来るジェルソミーナに、無理やり手助けさせようとします。その翌朝、ザンパーノとジェルソミーナは、オート三輪で尼僧院を後にするのですが、その時のジェルソミーナの憔悴しきった悲しげな様子に、若い修道女が思わず声をかけます。ジェルソミーナはただ首を振るだけで、涙を浮かべて、オート三輪の荷台から手を振って去っていきます。この悲しみは、結局彼女がザンパーノの片棒を担いで銀のハートを盗んだからでしょうか。しかしそれ以上に、元来“聖なる者”としての彼女の存在が、修道院に強く惹き付けられ、去りがたい思いになったからとも受け取れます。そうは言っても、もはや彼女は、修道女のような“空気”のごとく抽象的な聖なる存在ではありません。無慈悲なザンパーノの支えとなりながら、この世の苦悩のただ中でもがき苦しみながらも心癒そうとする“聖なる”存在へと変容しているのです。ジェルソミーナは、修道院への心惹かれる思いを断ち切るかのように、自分の使命のためにザンパーノと共にその場を去っていくのです。

(8)アルレッキーノの死の悲劇
そして悲劇の時がやってきます。ザンパーノとジェルソミーナは、偶然にも人気の無い山道で、車がパンクして立ち往生するアルレッキーノと出会います。積年の恨みを抱くザンパーノは、アルレッキーノを捕らえて殴りつけたのですが、打ち所が悪く、アルレッキーノはその場で息を引き取ってしまいます。ザンパーノはアルレッキーノの遺体を隠し、ジェルソミーナを連れて逃走します。この時から、ジェルソミーナの様子がおかしくなっていきます。塞ぎ込むことが多くなり、芸の途中でも、「彼の様子が変よ、ザンパーノ、彼が死にそうよ」と言って泣き出します。正気を失ってしまったのです。ジェルソミーナにとっては、アルレッキーノの死は、それほどまでにショックだったのです。殺人事件に立ち会ったのですから、当然のことでしょう。しかしジェルソミーナにとっては、アルレッキーノの死は彼女の存在の意味を覆すさらに深い意味を持っていたのです。アルレッキーノによって、ジェルソミーナは、自分の生きる意味がザンパーノに役立つことであることを知らされます。それは、彼女自身の深い求めであり、アルレッキーノはただ彼女にそのことを気づかせただけなのですが、彼女にとってみれば、それを伝えたアルレッキーノこそがこの自分の生きる意味の支えとなっており、アルレッキーノがいなくなれば、自分が生きる確信までもが揺らいでしまうと感じたのは仕方の無いことでしょう。その自分のいのちの由来あるいは救いの根源であるアルレッキーノを、自分の生きる目的であるザンパーノが殺してしまったのです。ある意味ではジェルソミーナにとっては、自分の分身による自分の救いである“神”を殺すということが起こってしまったのです。聖なるままにこの世の悲惨に踏み込んでいくという、薄氷を踏むような困難な試みを行ってきたジェルソミーナの心は、もはやそこまでのことには耐えられなかったのです。

オート三輪の荷台で何日もの間うずくまり、正気を失ったジェルソミーナをザンパーノが扱いかねていた時、二人はある雪の残る廃村にさしかかります。そこで珍しくジェルソミーナが外に出たがります。冷たい冬の大気の中でも日差しは暖かく、廃屋のレンガ壁の前の陽だまりの中で、しばし正気に戻ったジェルソミーナが、ザンパーノがつくったスパゲティをおいしく調理しなおし彼にふるまいます。故郷の村を出た時には、料理1つ出来なかったジェルソミーナだったのですが。この場面は、聖書に出てくる最後の晩餐の場面を思い起こさせます。食事を終えて、ザンパーノからオート三輪に乗るように促されるジェルシミーナですが、再び「あなたが彼を殺した」とつぶやいて正気を失い始め、その陽だまりの中に横たわってしまいます。そして「たきぎが足りないわ。火が消える。」と言って寝入ってしまいます。すでに気の触れたジェルソミーナを重荷に感じていたザンパーノは、その場にジェルソミーナを置いて去っていきます。その時せめてもの償いでしょうか。毛布を彼女の体にかけてやり、わずかな金と彼女のトランペットを枕元に残し、火が消えないように薪をくべて去っていくのです。そしてこれが、ザンパーノとジェルソミーナの永遠の別れになってしまいました。すでに申し上げたとおり、火はこの映画で重要な意味を担います。いのちの象徴であり、またいのちをその業火で浄化する火でもあります。ジェルシミーナは、この火によって、その魂がさらに次元の高いものへと浄化されていくのです。

(9)救いの成就
それから月日が去り、ザンパーノは老いながらも再びサーカス団に入って、相変わらず1つ覚えの鎖切りの芸を演じています。そのザンパーノが、とある海辺のまちにやって来た時に、あのジェルソミーナのメロディーを耳にします。堪らずにその曲の聞こえる方を辿っていくと、一人の洗濯女がそのメロデシーを口ずさんでいました。その女に尋ねると、気が触れてこのまちにたどり着いたジェルミーナが、いつもこの曲を悲しそうにトランペットで吹いていたのこと。そしてジェルソミーナが、4,5年前にのたれ死ぬように亡くなったことを聞かされます。ザンパーノは肩を落とします。ジェルソミーナのことはずっと気に掛けており、彼女を置き去りにして以来、心の中にぽっかり穴の開いたような空虚感と罪悪感に苛まれていたことでしょう。そのジェルソミーナの死は、もうその心の穴が二度と埋められぬこと、そしてジェルソミーナへの罪をもう二度と償えぬことをザンパーノに悟らせたのです。その夜ザンパーノはいたたまれずに酒場で酔いしれ、他の客に絡んで大暴れし、袋叩きになります。そしてこの物語の“道”の始まりであり、ジェルソミーナのいのちの故郷である浜辺に辿りつきます。過ぎ去った日々とは対照的に、変わらずに打ち寄せる夜の波打際で、ザンパーノは今さながらに失ったものの大きさを悟り、浜辺の砂を握り締めて身もだえして泣き崩れるシーンで、この映画は終わっていきます。

この映画は、あまりにも哀れで救いの無い映画だという感想があります。でも果たしてそうでしょうか。ジェルソミーナは故郷の寒村で、貧しくとも世間と関わらぬ聖性のままに一生を終えられたかもしれません。しかしザンパーノと共に“道”を歩むことによって、この世の悲惨を知り尽くしたジェルソミーナは、その悲惨の中でこそザンパーノの支えとなるという、自分の生きる意味を見出しました。そしてあまりにも無残な事件が機となって正気を失い、ザンパーノに捨てられてのたれ死んでいくことは哀れですが、この時彼女の魂は浄化されて、1つのメロディーと化していきます。あの哀愁を帯びたどこまでも美しいメロディーです。人間の醜さ、惨めさ、悲しさのすべてを包み込んでその苦悩に寄り添い、なお聖なる美しさへと誘っていくメロディーです。それが海辺のまちの洗濯女の心を捉え、この曲を聴いたまちの人々の心を慰め、そしてこの映画を観た無数の人々の魂を救いへと誘うのです。ジェルソミーナの魂は、今やそういう魂として永遠に存在し続けるのです。ここに彼女に対する、神の愛の深さが示されます。

一方ザンパーノの人生は、この浜辺で身もだえたままで終わるのでしょうか。“道”はけっして終わることはありません。1つの道が終わっても、また別の道へと続いていきます。ザンパーノは、この時初めて自分の魂の求めが何であったかはっきり気づいたことでしょう。同時に自分の仕出かした取返しつかない罪の深さにも気づいたはずです。邪悪なる存在は、邪悪なるが故に聖なるものを求めざるを得ず、また聖なるものの支えがあって始めて、自分が生きられるようになることを悟るのです。ジェルソミーナを見捨て、死に追いやったことによって、実はザンパーノは自分自身の魂を見捨て、自分自身の魂を殺してしまったのです。ザンパーノはこの後、ジェルソミーナを失った空虚感と罪悪感、そして深い後悔の念を抱いて生きていかざるを得なかったでしょう。それは彼の犯した罪に対する罰とも言えます。やがて彼自身も芸が出来なくなって、老いさらばえてのたれ死んでいく時がやってきます。しかしそのとき彼は、もはや獣性のままには死んでいくことは出来ないでしょう。彼に手を差し伸べるわずかな人たちに対して、彼の犯した過ちと悔いを語らずにはおれないでしょう。同じ過ちを繰り返さぬようにとの祈りを込めて。ここにザンパーノの魂の浄化があり、罪の赦しと神の救いを見て取ることが出来るのです。こうしてこの映画は、フェリーニ監督が目論んだように、『神の愛は、信じぬ者にも及ぶ』という祈りが成就して終わっていくのです。

こうした人間存在のすべてを包み込んで、赦しと救いに歩める生き方を模索していきたいと思います。次回のパンセの集いは7月4日の月曜日、18時からです。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)