ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.95『映画「カサブランカ」-大義を超える男のかっこ良さ』

Jul 30 - 2016

■2016.7.30パンセ通信No.95『映画「カサブランカ」-大義を超える男のかっこ良さ』

皆 様 へ

(1)はじめに
相模原の障碍者施設に、障碍者の生存そのものを否定する男が刃物を持って侵入し、19人を殺害し26人が負傷するという事件がおきました。現代の社会状況を反映する犯罪です。この問題は次回のパンセ通信で、いのちの力にもとづく確かな暮らしづくりとあわせて取り扱うこととしたいと思います。今回は前回の幡ヶ谷ホームシターサークルで鑑賞した映画「カサブランカ」から、この揺れ動く現代にあって私たちが、確かな生き方、暮らし方をつくっていくためのヒントとなるような内容を取り出して、ご一緒に考えていってみたいと思います。なお次回のパンセの集いは8月1日の月曜日、時間は18時からです。場所は、初台・幡ヶ谷の地域で行います。

(2)どこか割り切れないもどかしさの残る名作
映画『カサブランカ』は、映画史の中でも10指に残る名作であり、多くの人々の心を捉えて止まない作品であることは間違いないでしょう。ダンディズム漂うハンフリー・ボガードの名演技と、あまりに美しいイングリッド・バーグマンの容姿。そしてただただしびれるような名セリフの数々と“As Time Goes By”の切なく甘美なメロディ。これでもかと言うほどの映画的ムードの立ち込める映像構成だけでも十分なのですが、もちろんその内容にも見せるものがあって、1943年にアカデミー賞3部門(作品賞、監督賞、脚本賞)を受賞しています。確かにぐっとくるところの多い作品なのですが、中にはこの映画は何度見てもよく分からないという声も聞かれます。非常に素直な感想だと思います。その1つの理由は、この映画が第二次世界大戦下に作られた、アメリカのプロパガンダ映画であるという性格を拭えないところにあると思います。実際に映画の随所で、枢軸国(ファシズム政権国)であるナチス・ドイツに対する敵意、イタリアに対する反感と皮肉、そしてドイツによるフランス占領後につくられたヴィシ-傀儡政権への抵抗の意思が散りばめられています。その一方で、対独レジスタンスを戦う自由フランス軍のシンボルであるロレーヌの十字紋章(横棒が二つある十字架)やフランス国家であるラ・マルセイエーズが効果的に用いられて、自由と解放への人々の思いを掻き立てています。そしてラストでは、主人公であるリックとカサブランカの警察署長ルノーが、揃って抵抗運動に参加することを暗示して、観客に反ファシズムの戦いへの大義に追随する気持ちを呼び起して終わっていくのです。

しかしここで、どうにももどかしい思いに襲われてしまうのは、私だけでは無かったようです。そのもどかしさの故に、この映画が今一つよく分からないという声になって表れてきているのでしょう。この映画は、端的に言ってまず良質のラブロマンスとして仕上げられています。そこにリックのような少し世の中を斜めに見る輩や、警察署長のような権力の中枢に従事して自己保身に生きる者が、ついには人間の良心に目覚めて、自由と尊厳を守る行動へと踏み出していくという少々安っぽい人間ドラマが加えられています。こうしたアメリカ人好みの演出の背後で、反枢軸国のプロパガンダ効果が巧妙に施され、戦意高揚気分の高まる当時のアメリカの風潮の中で、この映画はさらに大衆受けするようになっていったのです。しかしあらゆる優れた作品がそうであるように、こうした切り型の演出が生み出す効果をはるかに超えて、この映画も“人間の真実”に迫る何かを描き出し、それを私たちに伝えることに成功しているようです。それが名作と言われる所以でしょう。もちろんこの映画をラブロマンスとして見ることも、人間ドラマとして見ることも、反ファシズム闘争の大義への気づきを促す映画として見ることも構いません。またハンフリー・ボガードのニヒルなダンディズムに酔いしれるのも良いでしょう。そうした鑑賞の仕方ですっきり感動できる人は、それはそれで良いのです。こうした様々の要素を含んだ構成が、この映画の幅広い人気の理由となっているのです。しかしまたこの映画を、単にラブロマンスとして見て良いのか、人間ドラマとして見て良いのか、大義への誘いの映画として見て良いのかと戸惑う人たちも出てくるのです。この作品の背後にある何かが心を捉えるのだけど、それがうまく表現出来ずにもどかしく、この映画をどう観て良いのか却って混乱をきたしてしまうのです。

そこで今回のパンセ通信では、この作品が期せずして描き出している“人間の真実”に迫る何かに思いを巡らして、ラブロマンスを始めとして様々にこの映画に盛り込まれた要素を、ある観点から相互に関連づけて一体的に読み解く試みを行ってみることにしたいと思います。

(3)この映画の時代背景
①カサブランカの街の役割
1940年6月にナチスドイツに敗北したフランスは、ドイツ、イタリアと休戦協定を結び、北部がドイツに占領され、南部に傀儡政府であるヴィシー政権が誕生します。北アフリカのモロッコの古都であり、商業・金融の中心地でもあったカサブランカは、当時はこのヴィシー政権の支配下にありました。フランスの敗北によって、ヨーロッパ大陸の全土は、事実上ドイツ、イタリアなどの枢軸国の支配下に入ります。このためにファシズムの圧政を逃れようとする人々は、イベリア半島の西端に位置する中立国ポルトガルの首都リスボンから、海路アメリカに向かうしかありませんでした。しかしイベリア半島の大半を占めるスペインは、中立とはいえファシズムに加担するフランコ政権が支配し、陸路でポルトガルに向かうことは出来ません。そこで人々は、まず南仏のマルセイユを経由して、海路地中海の対岸にあるアルジェリアのオランに辿りつき、さらにそこから陸路カサブランカに向かうという難渋の旅程を辿るしかありませんでした。カサブランカからは、不定期の航空便がリスボンに向けて飛んでいたからです。しかしカサブランカにおいても、お金やコネのある者だけが出国ビザを得ることが出来、その他多くの人々は、カサブランカにいつまでも足止めされるという状況が続いていました。これがこの映画の時代のカサブランカの状況です。

②カサブランカに集ってきた人々
当時のカサブランカは、ヴィシー政権が支配するとはいえその統治は緩く、ヨーロッパ中から様々な人々が流れ込んで来ていました。まず警察署長のルノーを始めとする、ヴィシ-政権の統治者たちがいます。そしてドイツやイタリアの軍人たちが闊歩しています。またこの街には、エチオピアを占領し、北アフリカ一帯に勢力を広げようとするイタリア人たちも多数流れ込んできています。主人公リックとナイトクラブの経営で張り合うフェラーリもイタリア人です。フェラーリはまた、カサブランカの裏社会の顔役でもあります。さらに出国ビザの密売人ウーガーテや、リスボンに向けて出国を待ち望む亡命者たちから財布を奪い取るスリなどの小悪人たちが、すべてイタリア人として登場します。映画の冒頭では、ドイツ軍のシュトラッサー少佐に必死で媚びを売って取り入ろうとするイタリア軍の大尉の姿も描かれます。こうした描写からは、ドイツの腰巾着となって連合国と戦うイタリアに対する、敵意と軽蔑の念が滲み出てきます。もちろん現地生まれなのか本土から流れついてきたのか、フランス人たちも多く主人公リックのナイトクラブで働いています。そしてリスボンからアメリカへ向けての出国を待ち望む、ヨーロッパの各地からやってきた多数の亡命希望者たちが流入してきています。そんな種々雑多の人々が、闇取引のビザを求め、また足止めされる鬱屈を晴らすために集るのがリックのナイトクラブでした。一方カサブランカに暮らす大多数であるモロッコ系の人たちは、この映画では街の雑踏を構成する群衆としてしか登場してきません。当時の欧米人の世界観からすれば、本来はアラブ人とイスラム教の街であるカサブランカを舞台とするとはいえ、関心が向くのは欧米人だけだったのでしょう。モロッコの人たちの方からしても、第二次世界大戦、反ファシズ闘争などと欧米人が騒ぎ立てても、自分たちの日々の暮らしとは何の関係もありません。もっとも有象無象の欧米人たちが、自たちの街に流れ込んできて街を牛耳るのは、迷惑なことではあったのでしょうけれども。

③欲望の交錯する中で、大義と建前に生きる人々
それではこうしてカサブンラカに流れ込んできた人々は、何を求め、何を自分の生き様として生きていたのでしょうか。この物語で何よりも中心的な役割を演じるのは、戦争と政治の時代ですから、大義に生きる人々です。まず目につくのがシュトラッサー少佐を始めとするナチスドイツの軍人たちです。この映画の中では、他の登場人物たちやカサブランカの街に重圧をかけて支配下に置こうとする悪役ですが、当然彼らは、ドイツ国家の栄光という大義に生きているわけです。次にこの映画の準主役とも言えるレジスタンスのリーダー、ヴィクトル・ラズロです。彼もまた日常の家庭生活や恋愛よりも何よりも、反ナチス闘争という大義に生きている人物です。そして主人公のリックです。この地では異色のアメリカ人で、様々な勢力が入り乱れて混沌とするカサブンラカの街にあって、“リックの店”とも呼ばれるナイトクラブ“カフェ・アメリカン”を経営し、誰にも組みせず超然として一匹狼を貫き通しています。そして目先の欲得や感情、世の中趨勢に流されることなく、ニヒルなダンディズムという大義を貫き通しているのです。いずれにせよこの3人の登場人物のように、私事を捨てて大義に生きる男というのは、“かっこ良い”存在に見えるものなのです。

次いで登場してくるのが、建前に生きる人たちです。その典型がカサブランカの治安を維持する警察署長ルイ・ルノ-です。彼はカサブランカを支配するヴィシー政権に本心から忠誠を誓っているのか、ファシズムの崇拝者なのか、それともレシズタンスのシンパなのか、人間としての本音は分かりません。しかしそんなことは彼にとってはどうでも良いことで、彼の関心は、戦時下のカサブランカという街での警察署長という役割をうまくこなすことでしかありません。事実彼は、力を持つドイツ軍には従順に従い、イタリア軍はうまくあしらい、自由フランス軍の活動家のように取り締まるべき者は適格に取り締まります。そしてリックの店からは、ルーレットの賭けに勝たせてもらって金品を得る見返りに、店内で客同士が行う出国ビザの闇取引などは目こぼしするなど、警察署長という建前に徹し、そのうまみも享受して生きているのです。すでに紹介したイタリア人の悪党たちも同じでしょう。カサブランカの裏社会を仕切るフェラーリにしても、出国ビザの密売人ウーガーテにしてもスリにしても、自分たちの人間的な思いとは別に、なりわいのためという建前のもと、違法行為を割り切って行っているのです。こうした大義に生きる者たち、建前に割り切って生きる者たちの間で、リックに秘かに助けられるブルガリア人の若い夫婦のように、必死に祖国での迫害から逃がれてきてアメリカへ向かおうとする、生存への生身の欲望をむき出しにして生きる人たちが合わさって、この物語は展開していくのです。

(4)主人公リックのかっこ良さと人物像
①本当の男のかっこ良さ
このように“大義に生きるかっこ良さ”を私たちに見せてくれる者たちの中で、主人公のリックは、昔の恋人イルザ(実はレジスタンスの英雄ラズロの妻)と再会することから、大義に生きることなどよりもはるかに確かな“男のかっこ良さ”を私たちに示してくれる存在へと変わっていきます。恋愛を通じて、大義も建前も生存への執着も振り捨てて、生身の自分自身に忠実な人間性に立ち返ることによって、真実の人間のとしての“かっこ良さ”を見せてlくれるのです。この“本当の男のかっこ良さ”を描き出すことに成功することによって、この映画は単なるプロパガンダとして持つ政治性をはるかに超越した作品となることが出来たのです。そしてこの“本当の男のかっこ良さ”こそがこの映画のテーマであり、そのことに思いが至れば、この映画の“分かり難さ”も、幾分すっきりと腑に落ちて理解できてくるのではないかと思われます。そこでこの“本当の男のかっこ良さ”を理解する手掛かりとして、まずリックの人物像を振り返って、それから物語の展開に沿って、この映画のテーマを浮かび上がらせていってみたいと思います。

③主人公リックの人物像
主人公のリック・ブレインはアメリカ人で、何よりもニヒルなダンディズムを体現した人物して登場してきます。1979年の沢田研二のヒット曲『カサブランカ・ダンディ』では、この映画を下敷きにして、「ボギ-ボギ-、あんたの時代は良かった」(ボギ-は主人公リック役のハンフリー・ボガードのニックネーム)、「男がピカピカのキザでいられた」、「男のやせがまん、粋に見えたよ」と歌われます。最後にリックが、愛するイルザとやせ我慢してでも別れて、ダンディズムの禁欲を貫き通すことのできた時代は良かったと歌うのです。しかしそんなダンディズムをリックが貫き通すようになった背景には、いったいどのような事情があったのでしょうか。

リックの過去は、物語の中盤で交わされる警察署長ルノーとの会話で明らかにされます。1935年にはイタリアの侵略と戦うエチオピアのために武器を調達し、1936年にはスペイン内乱で人民戦線政府側の義勇兵として戦っているのです。彼もかつては、紛れもなく反ファシズムの大義のために戦った勇士だったのです。しかし理想に反して、その戦いの内実は悲惨なものでした。人民戦線を構成する各派閥の間で内部対立が激化し、特にソビエト・コミンテルンの支援を受けた共産党勢力は、人民戦線内部で自派の主導権を得るために、同じ戦線内部の他派を粛清するというおぞましい行為に出てくるのです。実際にリックがどのような経験をしたかは定かではありませんが、彼の理想に燃える思いが例えようのない幻滅に変わったことは間違いのないことでしょう。しかもこうした履歴が災いしてか、彼はアメリカを国外追放されてしまうのです。こうした過去を鑑みると、リックが理想や大義を捨て、人間らしい心の動きも封印して、誰にも左右されずに今この場の現実をしたたかに生きる、非情なダンディズムに徹するようになった理由も分からないではありません。確かにその姿はその姿として、先ほどのカサブランカ・ダンディーの歌詞のようにかっこ良いのですが、しかし彼はそのダンディズムの殻を打ち破って、永遠にこの映画を見る者の心を打つ、更なる“本当の男のかっこ良さ”を私たちに見せていってくれるのです。その展開を映画のストーリーに沿って、順に見ていきたいと思います。

(3)映画「カサブランカ」のストーリーとリックの変容
①冒頭場面とリックのダンディズム
物語はドイツの情報連絡員2人が列車内で殺害され、通行証(無記名の出国ビザ)が奪われて、犯人がカサブランカに向かった報じられるところから始まります。カサブランカでは警察署長ルノーの指揮のもと、犯人検挙のための厳しい捜査が行われ、自由フランス軍のシンパと思われる人間が一斉に検挙され、逃げた者は撃ち殺されます。この捜査ためにドイツ軍から派遣されてくるのが、シュトラッサー少佐です。空港に降り立ったシュトラッサー少佐に、ルノーは今夜通行証を奪った犯人がリックの店に現れるという情報を伝えます。

リックのナイトクラブは、もちろん種々のお酒も飲めるし、黒人ピアニストのサムやエキゾチックなギタリストの女性がいて、またレベルの高い楽団もあって訪れる客を楽しませます。さらにカジノでギャンブルも出来て、カサブランカの夜の人気スポットとなっています。その店で、彼はけっして客と同席して酒を飲まなかったり、ドイツ銀行の元頭取などと吹聴してカジノに入ろうとする怪しい客は断ったり等、彼の流儀を貫いて経営しています。それはすでに説明してきた、彼のニヒルなダンディズムという流儀によるものです。彼にとっては、店にやってくる客の素性は眼中にありません。従業員の過去と未来も同様です。今ここで楽しんでもらえるか、精一杯信用できて働いてもらえるかしか興味が無いのです。このクールな姿勢が、客に対してはどんな素性の人間であろうとある距離をもって平等に接することを可能とし、またいろいろな事情を抱えてカサブランカに流れついてきた従業員たちにとっては気兼ねなく働かけて、逆にリックを信頼する理由ともなっているのです。そして店の経営を乱さぬ限り、客同士が違法な取引をしようが関知しません。こうしたスタイルが混沌の坩堝であるカサブランカで、リックの店が人気を博する理由となっているのでしょう。

このリックのニヒルなダンディズムが端的に示されるのが、彼のガールフレンドであるイヴォンヌとの間で交わされる有名なセリフです。
イヴォンヌ「昨夜はどこにいたの?」 リック「そんな昔のことは覚えていない」
イヴォンヌ「今夜会える?」 リック「そんな先のことはわからない」

②奪われた通行証の行方
こうしたリックのクールな態度は、小悪党の信頼も惹きつけます。出国ビザの闇取引をなりわいとするウーガーテが、殺されたドイツ情報連絡員の通行証2通を入手し、それをリックに預かるように依頼しに店にやってきます。身の危険を感じたからなのでしょうか。その時のセリフも印象的で、ウーガーテがリックのダンディズムを信頼している様子がよく表れています。
「リック、カサブランカにはたくさん友達がいるが、君は僕を軽蔑しているから、僕が信頼するのは君だけだ」
まさにこのウーガーテこそが、警察署長ルノーがシュトラッサー少佐に話していた犯人だったのです。ルノーがこの情報を入手出来たのは、彼自身も裏で出国ビザの密売に手を染めていたので、例の通行証が誰の手に渡り、どこで取引されるかが伝わってきたのでしょう。シュトラッサー少佐一行がリックの店に到着するのを見計らって、ルノーはウーガーテの逮捕に踏み切ります。リックは預かった2通の通行証を、サムのピアノの中に隠します。

ウーガーテの逮捕騒動が一段落したところで、レジスタンス運動のカリスマ、ヴィクトル・ラズロが美しい妻イルザを伴ってリックの店に現れます。ウーガーテの出国ビザの取引の相手は、このラズロ夫妻だったのです。もちろんルノーもシュトラッサーも、威信にかけてラズロをカサブランカからアメリカへは逃がさないようにしようとします。

③As Time Goes By と君の瞳に乾杯
ラズロの妻イルザを見た時、ピアノ弾きのサムの表情が驚きに変わります。サムはリックがパリに居た時から行動を共にしていました。そしてイルザは、確かにサムの記憶に焼き付けられた人物だったのです。ウーガーテから無記名の出国証を入出する手はずの狂ったラズロは、自由フランス軍の紋章を持つ連絡員から接触を受けて、イルザと席についたテーブルを離れます。その間にイルザがサムのもとにやってきて、思い出の曲「As Time Goes By(時の過ぎ行くままに)」を昔のように弾き語りするように頼むのです。二人の人間をつなぐ愛に嘘偽りは無く、その真実は永遠に続くという思いを込めた歌です。

じつはリックとイルザは、パリで出会い、激しく愛し合った間柄だったのです。アメリカに帰国できないリックは、この頃傷心の思いのままにパリで過ごし、すでに大義にも感情の機微にも一線を画したニヒルな現実主義に自分を閉ざしていたことでしょう。一方イルザは、夫のラズロが強制収容所で亡くなったとの知らせを受けて、希望を失っていました。イルザは、チェコのプラハでレジスタンス運動を展開していたラズロに惹かれて結婚しました。とにかく大義に生きる人間というのは、かっこ良く見えてモテるものなのです。しかしそれは恋愛というよりは、あこがれや尊敬といった念の方が強かったことでしょう。このリックとイルザが心に傷を負ったままパリで出会いました。そしてキザな構えや大義へのあこがれを振り捨てて、二人は生身の人間として愛し合ったのです。愛の激情は、あらゆる人間の建前など吹き飛ばしてしまうのです。この時に愛し合う二人が、部屋で乾杯する時に語った名セリフが、「君の瞳に乾杯(Here’s looking at you)」です。なかなかの名訳なのですが、本来の英語の意味は、(今という時に存在するありのままの君をしっかりと)見つめることに乾杯、というほどの意味になるでしょうか。このセリフは、この映画の重要な局面で4回も出てきます。二度目に出てくるのが、再び出会ったリックとイルザが、サムのAs Time Goes Byの弾き語りを聞きながら乾杯した時です。三度目に登場するのは、二人の恋愛が戻り、イルザがラズロを捨てて素直な本心に立ち返って、リックとカサブランカに留まることを決意した時です。そして最後は、この物語のラストの飛行場のシーンで、リックが本心から幸せだったパリでの二人の思い出を胸に、ラズロとイルザを送り出すシーンです。

リックとイルザは、ドイツ軍の侵攻によってパリが陥落する直前に、一緒に列車でパリを脱出することを約束します。しかしその時イルザは待ち合わせの駅に現れず、ただ突然の別れの手紙だけが託されて、リックは裏切られてしまうのです。イルザが駅に行かなかったのは、その時知らせが届いて、夫であるラズロが生きているが病気であり、パリの郊外で匿(かくま)われていると知ったからです。この別れがリックを、さらにニヒルなダンディズムに追いやるようになったことは疑いの無いことでしょう。

④イルザとの再会
演奏を禁じていたAs Time Goes Byの曲をサムが弾き語っているのを耳にして、リックは怒って飛んでくるのですが、そこでイルザを目にします。その夜イルザはこっそりと閉店したリックの店にやってきます。しかし昔を思い出し、酔わずにはおれなかったリックは心を閉ざし、イルザの話を聞こうとはしません。イルザもリックに会おうとする目的は、リックが持つ二人分の通行証を入手するためでした。しかしこの二人の出会いは、再び二人の恋愛感情を呼び覚まし、リックのダンディズムの鎧とイルザの大義に生きる夫への忠節心を解きほぐしていきます。ところでラズロとイルザの夫婦愛は、お互いを思いあい、自分が犠牲になっても相手を助けようとする献身性もあってまことに麗しいのですが、どこか空虚で嘘っぽさが感じられます。それが大義のもとでの愛というものの限界でしょう。それに比べてリックとイルザの愛は、生身の人間の求めあいであり、そこに何の無理もない確かさがあるのです。

⑤リックのダンディズムを解きほぐす、2つのエピソード
ここでこの映画は、リックのダンディズムをさらに解きほぐす出来事として、2つのエピソードを挿入しています。1つはブルガリアから逃げてきた若い人妻が、リックに相談をもちかけるエピソードです。お金がなくて出国ビザが買えず、夫に内緒で警察署長のルノーに身を任せてビザを入手しようとする女性です。個々人の運命に干渉しない流儀のリックが、良心の痛みに耐えられなかったのか、秘かに夫がルーレットで勝てるように仕向けて、この夫婦が出国ビザを買えるだけの大金を手にさせます。そしてもう1つのエピソードは、ラズロたちを追い詰めて、カサブランカをも支配下においたかのように勝ち誇ったドイツ兵たちが、サムのピアノを占拠して、傍若無人にドイツの軍歌「ラインの守り」を歌い始めた時です。レジスタンスの英雄ラズロが指示して、楽団にフランス国家「ラ・マルセイエーズ」演奏させようとします。楽団員は戸惑いますが、リックが頷くのを見て演奏を始めます。すると店にいた従業員や客のすべてが、警察官や密売人等の役割をかなぐり捨てて、生身の自分に戻った本心の力強さで「ラ・マリセイエーズ」を歌い、ドイツ兵たちを圧倒します。リックに相手にされずにドイツ兵に媚びていたイヴォンヌさえも、涙を流して国家を歌い、最後にフランス万歳と叫ぶのです。

⑥リックの計画と本当のかっこ良さ
しかしこの一件で威信を傷つけられたシュトラッサー少佐は怒り、リックの店を営業停止にし、またラズロに圧力をかけ、ついには彼を逮捕してしまいます。再びイルザと本心から愛し合うようになったリックは、ダンディズムの香りを漂わせながらも、もはやそれをかなぐり捨て、ここから本当の人間の強さと男のかっこ良さを私たちに示していってくれるのです。リックは警察署長のルノーを訪ね、ラズロを陥れる計画を話します。ラズロを釈放し、そのラズロにリックが通行証を売ります。その場にルノーが踏み込んでラズロを逮捕するというものです。そしてラズロを強制収容所に送り、リックは愛するイルザと共にカサブランカを出国するという計画です。この話に乗ったルノーは、早速ラズロを釈放します。そして予定通り通行証を受け取るために、ラズロとイルザがリックの店にやってきた時に、ルノーが踏み込みます。しかし計画に反してリックは銃口をルノーに向け、ルノーに空港から出国する手配を行わせて空港へと向かいます。この時ルノーは、空港に電話をかけるふりをしてシュトラッサー少佐に電話をします。異変に気づいたシュラッサーも直ちに空港へと向かいます。

空港に着いたリックは、ルノーにラズロとイルザの搭乗手続きを命じます。驚いたのはイルザです。昨夜リックとの愛を取り戻したイルザは、リックと共にカサブランカに留まり、夫だけを無事に出国させる決意をしていたからです。この別れのシーンで、再び名セリフが語られます。
イルザ「でも、私たちはどうなるの?」
リック「僕たちにはいつも幸せだったパリの思い出があるさ。君がカサブランカに来るまでは失っていたが、僕たちは昨夜取り戻したんだ。イルザ、僕は高潔なことなんかには縁が無いが、この狂気が支配する世界では、ちっぽけな3人の問題なんか大したことではないんだ。いつか君も理解するさ。さあ、君の瞳に乾杯!」
ここには「カサブランカ・ダンディー」で歌われているような、キザな男のやせ我慢なんてありはしません。リックは本心から自分が犠牲になって、二人を旅立たせようとしたのです。なぜならリックには、生身でイルザと愛し合ったパリでの思い出があり、その何ものにも囚われない本心の自分が、もはや永遠の確かさをもって彼を支えているからです。それは大義でもなく、シニカルなダンディズムでもなく、また生への執着でもない、まさに人間の良心とでもいったものでしょうか。この生身の良心にしっかりと立つことが出来たからこそ、リックは強く、大義などが足元にも及ばない強固な“男のかっこ良さ”を体現することが出来たのです。

⑦建前を振り捨てたルノー
その時シュトラッサー少佐が飛行場に到着し、ラズロ夫妻の乗る飛行機の離陸を、管制塔に命じて阻止しようとします。またリックの行為を知って、リックに発砲しようとします。その時リックも発砲し、シュトラッサーを撃ち殺してしまいます。丁度その時点で警官隊が到着します。ヨーロッパの映画であれば、ここでリックが捕らえられて悲劇のヒーローとなるところですが、そうはいかない処がアメリカ映画のしたたかさです。確かにここで悲劇のヒーローとなっては、リックが大義に殉じることになり、それではこの物語の真のテーマがおかしくなってしまいます。警察署長のルノーは、到着した警官隊に、リックには目もくれずに「シュトラッサー少佐が撃たれた。犯人を捜せ。」と命じます。さもシュトラッサーが、レジスタンスの何者かの凶弾に倒れたかのごとくに。この時ルノーは、自分が飲もうと手にしたミネラルウォーターの瓶に、ヴィシー政権で製造されたラベルが張ってあるのを見て、それをゴミ箱に捨てます。この時ルノーもリックに感化されて、警察署長という建前を捨て去ったのです。

そして警官隊が犯人捜査のために去って、リックと二人きりになった時、ルノーはこうリックに語りかけます。「暫くカサブランカから消えた方がいい。ブラザビル(アフリカ中央部コンゴ共和国の首都)に自由フランス軍の駐屯地がある。私が通行証の手配をしよう。そしてお前との賭けに負けた1万フランを、俺たちの旅費にしようぜ。」リックとルノーは、ラズロとイルザが無事にカサブランカから出国できるかどうか賭けをしていたのです。そして二人が夜霧の中に消えていくラストで、リックの名文句が語られるのです。「ルイ(ルノーの名前)、これが美しい友情の始まりだな。(Louis, I think this is the beginning of a beautiful friendship)」ただこの英文を「美しい友情」と訳すのはちょっと疑問かもしれません。あくまでプロパガンダ映画として、二人が大義に目覚めてレジスタンス運動に参加していくとするならこの訳で良いでしょう。しかし二人の行き先がブラザビルと決まった訳ではありません。暗い夜霧に消えていくのも不確かさが残ります。むしろ二人が目覚めたのは、本心の自分であり、そこに見出した“嘘偽りのない確かな人間の良心”だとするなら、二人は大義を支援しながらもそれには巻き込まれず、したたかな人間の強さをもって、個人としての良心を貫いて生きていこうとするはずです。そうだとすればこのa beautiful friendshipは、「(切っても切れない)これが“腐れ縁”の始まりだな」とでも訳した方が良いのかもしれません。そしてそこにこそ、世の中の奔流に巻き込まれてもけっしてぶれることのない、確かな“人間の良心に生きるかっこ良さ”があるのです。

私たちも、一番確かな自分の部分で、しっかりと“良心に生きるかっこ良さ”から暮らしを組み上げていってみたいと思います。次回のパンセの集いは8月1日の月曜日、18時からです。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)